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【専務 西村栄造のコラム】第18回 「ジャンケン、ぽん!グ、リ、コ。!」

原画の初代ウルトラマンにはまだ胸のカラータイマーがなかった。
初代ウルトラマンやその前身となる“ウルトラQ”の怪獣たちを生み出した彫刻家でもある青森出身の成田享なりたとおる氏の作品群が、青森県立美術館の常設展に展示されている。

その初代ウルトラマンで地球の平和を守るための“科学特捜隊”のアラシ隊員を演じていた毒蝮三太夫どくまむしさんだゆうさんが、77年前の東京大空襲で逃げまわっていたときのことを誌上で語っていた。
〈 ものすごい熱風が吹きつけて息ができない。目も開けられない。「母ちゃん、こんなに苦しいんなら死んだほうがましだ」と叫ぶと、おふくろは「死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるためだ」と言って、水中眼鏡を渡してくれた。翌朝、焼け跡に子どもの革靴が落ちていた。拾うと、変に重い。片方に足首から先が入っていた。何も感じずに取り出して脇に置き、靴を履いた。爆風で飛ばされたであろうその子のことを考えたのは後になってから。〉

ポーランドにマイダネクというナチスの“絶滅”強制収容所があった。そこから、貨車何輌分もの、子どもの靴の山が運び出されていたという。九十六万人もの殺された子どもたちが履いていた靴である。
両親から、家や学校から無理やり引き離され、貨車に乗せられ、子どもたちが人生の最後の夜を過ごした収容棟の壁には指の爪や石の破片で刻んだ、無数の蝶の絵が残されていた。


いつの歴史においてもかげが差しはじめる時代には古代ローマの“パンとサーカス”の世界へ通じる暗渠あんきょの如きものが架かっている。

電車の中で携帯をいじっている人たちを見ていると、片手の親指だけでスマホを器用にこなしているのは若い人たちである。中高年の人たちは人差し指で画面を押すように操作している。
ヒトのサルからの進化は親指にあったとされている。サルをはじめとする他の動物の親指は、手のひらと対立することができない。ヒトの手は、親指が手のひらと向き合い、対立することで力が入り、モノをつかめるようになった。このような構造は人間の手だけに見られる構造のようだ。人間は親指を進化させることで、しっかりとモノをつかみ、道具を操れるようになったのである。
今や、その若い人たちの親指は本のページをめくるのでもなく、携帯をいじるのにほぼ費やされている。


ネット社会が夜警国家の下いともたやすく組み敷かれるかは、ロシア、中国等の専制国家の一元的に統制された現状から容易に透かして見ることができる。ネットの国際社会では今や、ウクライナを中心にして激しいサイバー攻撃の最前線に置かれており、組織的なハッカー集団による世界大戦レベルのサイバー空間になっているという。この国でも政府機関や各企業においてその兆しはすでに散発的にみられるが、世界のデジタル社会がいつ麻痺し混乱してもおかしくない状況にあるのだろう。

ネット社会での人とのつながりは、つぶやきや、ごく短い言葉のやりとりで行われ、ネット上でオープンになっているものもある。人びとの喜怒哀楽や迷いや決断の中身が誰の目にも透けて見えているようで、それはそれぞれの異常なまでのおのれの承認欲求も相まって、危うい空間の共同体になっている。過剰な可視化が進行し、視覚的な洗脳にあふれている。執拗なプロパガンダの虜に陥ったり、加工された虚像を駆使したディープなフェイクニュースへの無防備さはもとより、デジタルタトゥーという他者を安易に傷つける刃物のようなものまで互いに手にしている危険な空間社会を招いている。

ところでネット回線は衛星の宇宙ではなく、海の底を通じて運ばれている。TwitterのつぶやきもInstagramの写真もYouTubeの動画も、すべて光海底ケーブルを通って手元のスマホに届いている。世界全体では、延べ120万km、およそ地球30周分もの長さの海の底のケーブルが張り巡らされている。
情報の盗聴も絶えず行われており、米国では海底ケーブルは情報の宝庫とされて、2020年にGoogleやFacebookなどが計画した、ロサンゼルス – 香港間 の海底ケーブル敷設は、香港で中国側に情報を盗まれるおそれがあるとして警告され、計画は頓挫したままになっているのが現状である。


不安な未来の輪郭がみえてきたこの時代。繰り返される戦禍や災禍の報道などは親指ひとつで画面を先送りする。
自分の手に負えないものは、見えない、見なかったこととして押し通そうとする。見たくない、知りたくない現実に対しては自分のまわりに無数の線引きをする。
おのれの嗜好のコンテンツを選んでわかりやすい情報だけをのぞみ、AIはその欲求に応えて配信してくれる。わからないものは回避し、お互いに不干渉ということが暗黙の合意とされ、おのれをいたずらに消費せずに他者とは心地よい共感と空間だけを追い求める。互いの関係のコミュニケートに欠かせないコンテンツだけを蒐集しゅうしゅうすることに腐心する。

それらの風潮は、今ふうにいう「コスパ」や「タイパ」(注1,2)という考え方が底流にあり、数時間の映画を数分に縮めた“ファスト映画”が横行したり、映画を早送りで観たりする人たちが増えているというのもそれらの“余裕のなさ”の現象ではないかといわれている。
無駄なことはしないという、一見合理的にもおもえるが、其の実、生きていくうえでいたずらに傷つきたくないという保身が読みとれそうである。
知識や思考は、映画であれ文芸であれ絵画であれ、いずれの作品と向かい合うこと以外、“ネタバレ”では身につかないことはいうまでもない。人間の思考は、生身の身体性や具体性がない限り、深まりも定着もしないし、生きていくうえで出発地と到着地を効率的に直線で結べるようなものなどないのだ。
ちなみに6時間12分に及ぶ「水俣曼陀羅まんだら」(原一男監督)というドキュメンタリー映画が最近公開された。水俣病が確認されてから60年の歳月が積み重なり、患者さんたちの怨念に比するとフィルムの長さはまだまだ足りない。

親指の操作ひとつで画面を先送りし、あるいは遮断し、線引きをしたはずの世界が、ある日突如として押し寄せてくる。
〈 君たちは戦争に関心がないかもしれないが、戦争の方では君たちに関心がある。〉ロシア革命の指導者・トロツキーの言葉である。


〈 ガンベッタの兵が、あるとき突撃をし掛けてほこさきが鈍った。ガンベッタが喇叭らっぱを吹けと云った。そしたら進撃の譜は吹かないでréveilレウエイユの譜を吹いた。イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある。〉
森鴎外の短編『あそび』のくだりである。
突撃喇叭らっぱの替わりに安息の鎮魂歌を吹いたとする、反骨的であり、ユーモラスですらある逸話だ。スローフードという郷土の伝統的な食材や食文化を見直す運動はイタリア北部の村ではじまっている。シンボルマークはカタツムリ。思慮深い、ゆっくりの意味だ。

『百鬼夜行シリーズ』の著者であり、妖怪研究家でも知られている京極夏彦きょうごくなつひこ氏の妖怪論の一端が民俗学者との対談形式の誌上で紹介されていた。水木しげる生誕100年にあたっての所感であるが、鴎外と同じ空気感で語られている。

〈 (今の人間たちは)強い思い込みが考える余裕を奪ってしまっているのでしょうか。あきらかに妖怪的なもの、無駄を享受する気持ちがかけていますよ。
/効率化というのは余裕を生むためにするものですよ。真面目に働いても怠けられない社会は間違ってますね。
/人間は無駄を享受するために生きているようなもので、水木さんはそういう生き方を示してくれてます。どんな状況でも「笑える」心の隙間を持つ。それが大事なことではないでしょうか。〉

先の大戦時に島に上陸した日本軍の将兵20万人のうち2万人しか生還できなかったニューギニア戦線やラバウルの転戦で片腕を失った水木しげる氏は、復員後、残された片手で紙芝居や漫画の執筆活動を通して、ユニークな妖怪たちを戦後の人間世界に送り出した。彼は「(世の中にはまだ)目に見えないものはたくさんある」という。
さて、“心の隙間”がなくなった今の私たちは「子泣き爺」も「砂かけ婆」も「ぬりかべ」、「猫娘」、空の守り神の「一反木綿」にももう出会えなくなっているのだろうか。


———最近は、ずいぶんとジャンケンをしていない。
神社の長い石階段などでチョキの「チョコレート」、パーの「パイナップル」、グーの「グリコ」という名前を使う遊びがある。これはじゃんけんで勝った方が、チョキなら「チョコレート」の字数の6で6段、パーなら「パイナップル」で同様に6段、グーなら「グリコ」の字数で3段だけ石階段を進める遊びだ。6段進める「パイナップル」か「チョコレート」を出すのが得で効率的なようにおもえるが、何故だか半分の3段しか進めない「グリコ」のグーで勝ったヤツがいつも石階段を先に上がりきっている。

 

ジャンケンはお互いを横断する、永遠の三すくみである。最後のところでは、やはり非効率的で不合理な〈わからないという領域〉を認め、残しておくことが大事なのかもしれない。

 

ところで、さきに触れたポーランドにあった収容所に“絶滅”の接頭語をつけたのは一定の期間強制的に収容される施設ではなく、ガス室などでの大量殺戮を目的にした施設は区別化してそのように呼ばれているからだ。
オオカバマダラやアサギマダラのように世代をつないで大海原や大陸間を翔び続けている蝶の群れがいるという。収容棟の壁から子どもたちの最後の夜に翔び立った無数の蝶のようだとおもうことがある。

 


 

追記

「コスパ」や「タイパ」とは無縁な女性の民族植物学者がいる。カサンドラ・リア・クウェイブという、植物と人類の文化の関係を研究している女性だ。カサンドラは細菌の生物膜形成(抗生物質耐性の原因の一つ)を阻害する植物を専門に研究しており、ジョージア州のエモリー大学の医学部の准教授である。
彼女の父親はベトナム戦争に従軍し、化学兵器の枯れ葉剤を浴び、彼女はその影響で右足のひざの下の部分を切断し、3歳の時から義足生活を送っている。

米軍が介入して以降1965年から約10年間続いたベトナム戦争では、200万人に及ぶベトナム人の死と5万数千人の米兵の死と無数の傷ついた人びとが残された。ベトナムで使われた米国の兵器は、ガソリンに化学物質などを混ぜてジェル状にし、長時間、高温のまま人体に張り付かせ、神経も毛包も汗腺も焼き尽くすナパーム弾とベトコンが潜むジャングルの森林を枯渇させるための8千万リットルの大量の枯れ葉剤の撒布だった。
最大300万人のベトナム人が枯れ葉剤にさらされ、現在もなお奇形出産や先天性欠損を抱える子ども15万人を含む100万人が猛毒のダイオキシンの影響を受けているとされている。結合双生児として生まれたグェン・ベト、ドクさんは日本に入院していたこともありよく知られている。
皮肉にも枯れ葉剤は、アーサー・ガルストンという植物学者によって発明されていた。

数千年のいにしえからヒトは、植物を使って病気やけがを治療してきた。アスピリンやモルヒネのように植物由来のものもある。植物に含まれる薬効成分には、植物が捕食者や病原菌、過酷な環境下で自らの身を守り、生き抜くために作り出した、さまざまな種類の化学物質があるといわれている。最近ではそれらの植物の薬理効果の研究は顧みられなくなっていた。

義足生活を余儀なくされた枯れ葉剤と植物学者、不思議な巡り合わせのようにおもえるが、なによりも彼女の研究者としての揺るぎない信念に圧倒されてしまう。
彼女は世界中を飛び回り、高温多湿なアマゾンの熱帯雨林で、あるいは地中海に浮かぶ離島の岩山で植物採集を続けている。彼女を急きたてるのは、最近の感染症において、抗生物質が多用され続けてきたことによる薬剤耐性菌による感染症が深刻化している現状を憂いての使命感だという。
世界はこのままでは、今までのパンディミックやエピデミックの感染症の死者をはるかに上回る命が奪われると予測されている。彼女は植物の薬効がその危機を救うと確信している。
植物種が乱開発や気候変動等で急激に減っている今、時間的に余裕はないと彼女は憂えている。
彼女は人間の手のなかで人間の手の速さでしか進まない手刺繍のように、丹念に世界中の植物を採集して回っている。無数の植物種の採集という、現地に何度も足を運ぶ“無駄”の積み重ねがあらたな発見につながっている。
彼女は、ハンディキャップをものともせず三児の母親でもある。

植物の病理効果が植物みずからの身を守るために作り出した化学物質にあるとするならば、清順さんが徳間書店から発刊される文芸誌・読楽で連載してきた『毒学』と密接な関連があるのではないかと浅学非才せんがくひさいながら勝手に推論をしている。
ところで、彼女は“薬草ハンター”と呼ばれている。

 

(注1)コスパ:コストパフォーマンス・費用対効果
(注2)タイパ:タイムパフォーマンス・時間効率


【専務 西村栄造のコラム】次回は12月を予定しています。
西村栄造のプロフィールはこちらのページよりご覧いただけます。