【専務 西村栄造のコラム】第19回「師走のミシンの音 」
花とひも付いた漁暦がある。藤が咲くとタイが釣れだす。菜の花が咲けば、カツオの準備をする。秋になって菊が花ひらくとオコゼが寄ってくる。海辺の村で咲く花々は漁の標になっている。
春夏秋冬の四つの季節をさらに六つに分けた二十四節気、これに入梅、土用、八十八夜などを栞のように折りこんだこの国の一年の暦があとひと月あまりで終わる。
術後の厄介な予後の四年が過ぎた。養生している季節のうつろいと馬齢を重ねていく歳月が交叉していて、喩えると、川底の流れに足をとられぬよう水のなかの沈下橋を渡っている、そんな心地でこの数年、師走を迎えている。
ー 電動で縫い針を進める今のミシンがどんな音を立てているのかよくわからないが、ミシンを足で踏んでいた時分のことである。
〈 ミシンは正直である。機械の癖に、ミシンを掛ける女よりも素直に女の気持ちをしゃべってしまう。〉向田邦子の著作『隣の女』の滑りだしである。
年の暮れというと、子どもの時分の頃の記憶にカタカタカタとミシンの踏む音があり、その記憶の糸口をほどくと洋服の仕立て屋だった父のミシンを踏んでいる姿がある。
師走のミシンはいつにも増して狭い店内でひっきりなしにカタカタカタと音を立てていた。女の気持ちとまではいかないが、師走のわが家のミシンはおしゃべりであった。
型紙が四畳半ほどの部屋いっぱいにひろげられ、父はチャコ(チャコールペンシル?顔料鉛筆のようなものだったとおもう。)で紳士服のデザインを型どっていた。かたわらには布で坊主頭にした針山に待ち針が無数に突きささっていて、赤や青や黄いの群がっている小さな珠が五彩に煌めいていた。
押入れの壁紙に使われていた老舗百貨店の包装紙のロゴ模様がしゃがみ込んで型取りをしていた父の記憶に脈絡もなく交ざりあっているのは、その作業の間、狭い部屋の押入れに子どもたちは追いやられていて、薄暗い押入れのなかから顔の幅だけ襖を開けて父の仕事をのぞいていたからだろう。
日頃は背広やオーバーの修理、かけつぎ類の仕事がほとんどだが、年の瀬にはお得意さんから背広の新調の注文があったりする。慌ただしく仮縫いを済ませると、大晦日の夜、新年を新しい背広で迎えたい客が、カーテンをしめた店の窓を叩いて、年の瀬の注文に恐縮しながら仕立てた背広を受け取りにやって来る。お愛想の不得手な父は客の満足そうな表情をうかがうようにみて、深夜のお客を見送る。
少しはお愛想のひとつやふたつ言ったらどうなの、そんな母の忠告にも耳を貸さなかったのは、酔うとひとりごち呟いていた“腕に自信のある職人は能書きなどたれないものだ”という、ひそかな彼自身のなかに宿っていた矜持のあらわれだったのだろう。
昭和の30年代のあの頃は、慌ただしいミシンの音とともにわが家の歳は暮れていた。
火葬の炉と直結した狭い収骨室には焼却されたばかりの遺体の余熱がこもっていた。骨上げは母と子どもたちだけだった。
母は長箸で眼窩あたりの骨を摘みあげていた。最期になって医者から父の義眼について尋ねられたという。母は医者のおもいもよらない問診に当惑していた。家族の誰ひとり父の片眼が義眼であったことは知らなかった。母も知らぬことだった。
彼女は背中を小刻みに震わせて、白い骨灰のなかから父を拾い上げていた。四十年以上も連れ添っていた彼女は悔いていたのだろう。
存命中はいつも手離さなかった父の黒縁の眼鏡は、義眼を目立たぬように隠していた伊達眼鏡だったのである。片眼だけで細い糸を縫針の小さな穴に通している仕立て屋の父の人生が無言のままそこにあった。彼はまさに“腕に自信のあるものは能書きなどたれない職人”だった。
ミシンを踏んでいた脚に埋め込まれていた義足の金具と眼鏡の留め具が焼ききれずに白い灰にまみれてあった。
それぞれの長箸が骨に当たる鈍い音を響かせて、台車に横たわる父を小さな骨壺に収めた。
子どもの時分、父が酒で荒れていた夜には、よく閉店後の酒屋の戸を叩いて酒を買いに遣らされていた。当時は店頭での量り売りで、五合瓶ほどの空き瓶を抱えての使いだった。酒の銘柄は決まって月桂冠。忘れないように夜の道すがら何度も月桂冠の二級酒とくちずさんでいた。
とりとめのないその安酒のことが記憶の底の欠片が剥がれるように泛かびあがってきた。二級酒の甘口であったことも。
〈 なぎの水面を風が打つ。波の誕生の瞬間だ。波は風を受けて成長する。風によって起こされ、伝わってきた波はうねりとなり、減衰を繰り返しながら時間をかけて伝播していく。やがて外洋で得たエネルギーを衝撃や音として放出し、岸辺に打ち寄せて、その終焉を迎える。人の一生に似ている。〉
同時代の知己の訃報にふれる機会が多くなったせいか、新聞の隅にあるベタ記事のような死亡広告に目を通すようになっていて、その都度ひとり合掌している。死因が自死のケースはこのお悔やみの欄には掲載されていない。
数年前、元東京大学教授であり政治評論家の西部邁氏の多摩川入水自殺の幇助が報道記事になっていた。西部氏の薫陶を受けた“塾生”ふたりによる、身体に工事用のハーネスと重しを装着させて遺体が川に流されぬようにロープを繋いでの幇助による自殺である。
重度の脊髄症で身体が不自由になっていた、七十八歳の西部氏は“自裁死”という人間の“尊厳死”について周囲に仄めかしていたという。事後に自殺幇助罪として起訴され有罪になった“塾生”ふたりには執行猶予がついていた。
〈人間は正視することの出来ないものが二つある。太陽と死だ。(ラ・ロシュフコー)〉の詩句の如く、ひと騒動の手間のかかった自死であった。
今年の夏の終わりには、映画『勝手にしやがれ』(1960年作)や『気狂いピエロ』(1965年作)などで世界の映画界にヌーベルバーグ(新しい波)を巻き起こした、フランスとスイスの二重国籍を持つ映画監督のジャン=リュック・ゴダールが亡くなっている。自殺幇助による安楽死との情報が時間差で報道されていた。
スイスやオランダ、ベルギーなどでは、致死薬入りの液体を飲み干すことで自死する自殺幇助が容認されているのである。
欧州では終を選択する人びとへの自殺幇助は年々、歯止めがかからなくなっている。この先、死が差し迫っていない安楽死が、死が差し迫っているがん患者などを上回るだろうといわれている。
成熟した時代の証左なのだろうか。あるいは危うい未来の兆しなのだろうか。
〈 病気の状態が深刻で、治療できない患者を安楽死させる権限を与える。 〉
安楽死を推進するこの命令は、実行本部が後にドイツ首都・ベルリンのティアガルテン通り4番地に置かれたことから「T4作戦」と呼ばれた。
まず、殺害の対象者を選ぶため、全国の病院や施設にいる患者に対して労働者として使えるかどうかを調査。この調査票をもとに本部の医師たちが「殺してもいい」と判断した場合は判定欄に印を書き込んだ。
二十世紀初頭、遺伝的に優秀な人間だけを残そうとする「優生学」という学問が欧米諸国で広がった。この「優生学」を政治に持ち込んだのがアドルフ・ヒトラーである。
ドイツ民族は精神・肉体とも遺伝的に優れていると主張していたヒトラーは、その著作で優生思想への傾倒をはっきりと記している。
「肉体的にも精神的にも不健康で無価値な者は、子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない」(ヒトラー著『我が闘争』)
断種法(「遺伝病の子孫の出生を予防する法律」)制定の3年後、1936年にベルリン・オリンピックが開催され、ヒトラーはドイツ民族の優秀さを国内外に誇示する機会として利用した。国民の士気を高め、支持を集めることに成功した裏で、障害や疾病のある人の殺害計画「T4作戦」が動き出していた。
戦時下の優生思想は民衆のあいだに瞬く間に広がり、身体障害者や精神障害者、回復の見込みのない疾病者のおよそ七万人が辺鄙な病院や施設に移送されて殺戮されている。
ちなみにこのヒトラーの断種法は、現在裁判で次々と弾劾されている、この国の戦後の新憲法下における旧優生保護法成立に大きな影響を与えているといわれている。
「お前、面倒くさい。こいつしゃべれないじゃん!」と言って準備して持ち込んだ刃物を入所者に次々と振り下ろしていった、相模原の知的障害者施設における四十五人もの死傷者を出した六年前の禍々しい大量殺傷事件も無縁ではない。
欧米で蔓延した優生思想は、西洋諸国との死生観や自然観の違いに起因すると尤もらしく言い切ることはできない。
〈 落語の酢豆腐ではないが、メニューにないものを注文する人がいる。
/その人物はなかなかの食通で、行きつけの顔の利く店があるのだが、北京烤鴨店《北京ダック》を頼むときに、「鴨はいらないよ。たまにはアッサリいきたいから、代わりになにか野菜を炒めたのを持ってきてくれないか。それを巻いて食べよう」などと言うのである。/ (略)
行きつけのバーへ行くと、必ず、マダムがそっとケーキや大福を出してくれる。ほかの人には出さずに、彼ひとりにである。
/(マダムの)間夫になったような気分になり、かなり高い店であったが、せっせと通っていた。
/ところがある日、いつもの時間より早く入ってゆくと、カウンターで大福を食べている男がいたというのである。
/「その男の、俺は特別なんだぞという顔は、そのまま俺の顔だと思ったね」彼は苦く笑いながら言っていた。
/ 小さなことでいい、自分だけ特別にしてもらわないと機嫌の悪い人は、まわりを見渡すと案外いるものである。〉
(向田邦子『無名仮名人名簿ー特別』)
九十一歳のゴダールの自殺幇助の記事を読んだときに、この“自分だけ特別にしてもらわないと機嫌の悪い人”という平易なくだりがつい過ったのである。
江戸後期の文政の頃、良寛は大腸癌を患い、烈しい下痢が続いていた。終日厠に走っては尻を拭っていたという。その世話を尼僧がしていたが、最期に「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」と彼女に借用の句を細くつぶやいて良寛は逝った。「うら」とは自分の醜態のことをみずから笑ったのである。
短歌や書などをあまた残した良寛は生涯、寺を構えずに無一物の托鉢僧でつらぬき通した清貧の曹洞宗の僧侶である。誰もが“尊厳ある死”という特別な最期をのぞんでいるとは限らない。
老いによる死は、その人にとっては初めての死かもしれないが、ヒトの命からみれば繰り返される営みのようなものだ。ヒトの死の先には臍の緒のようにあらたな命が大地につながって芽吹いている。そのようにして生命世界の流れのなかで人間は存在し続けてきたのではないか。
ー 寒月やひとり死のうと死ぬまいと(雅号・土茶)小三治 ー
装着されていた生命維持の管を外し、病床に仰向けのままの父の上にまたがるようにして心臓マッサージを施していた医師がこちらに暗黙の了解を求めていた。
もう数分だけとお願いをし、深夜の零時をまわったところで、ありがとうございましたと医師に丁重にお礼をいった。永い酷使から解放されたように心臓は、その動きを止めた。ちょうど彼の生まれた、翌日の日付けに変わったところだった。
ひとりの仕立て屋の最期はおめでたい区切りの日となった。“ハッピーバースデー”と私が微かに口ずさんだのを母は気がついていた。
七十数年前、ポーランドにあるナチスのアウシュヴィッツ強制収容所内にファッションサロンがあったという。高級服の仕立ての作業場でユダヤ人を中心とした二十五人の女性の囚人たちがお針子としてミシンを踏まされていた。
顧客はナチスの親衛隊の妻たちだ。服の材料はどれも、収容所に入る際、屈辱のなかでユダヤ人たちが奪われ、はぎ取られた衣類だ。
命を落とした100万人以上の人たちが残した衣類を材料にして、ナチスの親衛隊の妻たちのために囚人服のお針子たちは自らの技術や経験を糧に高級な服を仕立て上げていた。
カタカタカタ、カタカタカタ ー “機械の癖に正直なミシン”はどんな踏み音を立てていたのだろう。
了
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