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【専務 西村栄造のコラム】第15回 壁面のガラスに映り込んだ青空 ー『戦艦ポチョムキン』の聖地 ー

〈 東京の井の頭公園の自然文化園に珍しい動物の展示があった。「霊長目ヒト科ヒト」。地球上の至るところに分布し、好奇心の強さが特徴とか。オリの中の大きな鏡に観客の自分の姿が映っていた。「あつかい方によっては大変危険」とも。〉

朝刊一面、ロシアによるウクライナの軍事侵攻がプーチンの顔写真とともに報じられた紙面の片隅にあった小記事である。
鏡に写っている像が自分であると認識する能力は、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータンの4種類と人類のみが有するといわれていたが、最近では、イルカ、ゾウ、鳥類ではカラスといった高度な社会性をもつ動物には鏡像認識があるということが判ってきた。


弥生時代中頃に中国大陸から伝わった鏡は光を反射し、姿を映す鏡には神秘的な力があり、祭祀の捧げ物や副葬品として用いられた。
日本書紀の、鏡をサカキ(注1)に下げて捧げ、天照大神のお出ましを願うシーン。「八咫鏡やたのかがみ」と呼ばれるその鏡は、のちに天上から地上世界へともたらされたという。優れた鏡は神に捧げられ、その象徴ともなり、いわゆる勾玉まがたま、剣と併せて三種の神器のひとつになった。

鏡や水面に写った自分の像をおのれ自身だと認識することで、みずからを体系化し、他者と群れをなして人類は進化してきたとするならば、古来、鏡がご神体として崇められているということと今の私たちは無縁ではないのかもしれない。


ウクライナの南西部にある黒海沿いの町、オデッサ。1905年、ここからロシア革命への蜂起ほうきが始まった。
弾圧され石段を転げ落ちる民衆とともに、当時のロシア帝国に対し碇泊中の軍艦の水兵たちが反旗を翻した地とされている。そのオデッサでの史実をもとに映画『戦艦ポチョムキン』が1920年代にサイレントで製作された。当時は世界中がレッドパージ、いわゆる赤狩り(注2)の時代であり、不朽の名作といわれるこの映画がようやく日本で一般公開されるようになったのが1960年代後半に入ってのころだった。
監督のセルゲイ・エイゼンシュテインの先駆的な映画技法は、当時のプロパガンダの要素があるとはいえ、階段を転がるシーンなどオマージュ、パロディ化されてその後の映画界に大きな影響を与えている。特に撃たれた母親の手を離れた乳母車が石段を落ちていくシーンは、ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』やテリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』、富野由悠季・藤原良二監督の『機動戦士ガンダム』など現在に至るまで数々の名作に引用されている。
今、皮肉にもロシア革命の聖地とも言うべきウクライナの黒海を臨むこの地をロシア軍みずからが焦土化し、歴史を塗り変えようとしている。


今世紀に入り、“おいおい、たしか今は21世紀だろう”と疑いたくなるほどの、想像をはるかに超えた凄惨な場面を私たちは次々に目の当たりにしてきた。世界は変わっているというより、後退し、今やこわれかかっているようだ。

2機のハイジャックされた航空機がニューヨークの高層の世界貿易センターに突っ込んだ惨劇、世界同時多発テロ、アフガン戦争の始まり、そして米軍の撤退、多くの避難民が押し寄せたカブールの空港から離陸する飛行機にしがみつき、ふり落とされる人びと、中国の香港、新疆しんきょうウイグル地区への容赦のない弾圧、ミャンマーの軍事クーデターと民衆への弾圧、東日本大震災の大津波と原発の爆発、世界中を席巻した疫病パンデミック、そして今回のウクライナのロシア軍の侵攻。さらにロシアが介入したシリアやイエメンの内戦。世界ではすでに8000万人を超える難民が発生している。

ついこの間まで揚々として掲げられていた、持続可能な〇〇、SDGs、脱炭素、温暖化等々のグローバルなスローガンは、無数のミサイルと砲弾の爆風と硝煙のなかでいっきに消し飛んだかのようだ。


今、信じがたいことが起き続けている世界を前にして、私たちは不安から逃れるために、わかりやすい構図に現実を押し込めようとしていないか、たちどまって考える必要があるのではないかとおもう。
為政者が多用する、コロナ禍での“生命か経済か”、“独裁者か民主主義か”などの二分法の思考だ。“生命か経済“を考えてみるに、元来、経済の「済」はそもそも民を救うということを意味し、「経」は治めるというのが語源であり、“生命”と対置されるものではない。むしろ“経済”は“生命”と一体のものであり、“経済”の本質そのものを見失っているとしかおもえない。
私たちはこのように平板化された二分法でしかものごとを考えきれなくなっているのではないか。“いいか悪いか”“前進か後退か”と限られた選択肢のないアンケートのような思考だ。
さらには、現在起こっている悲劇さえ消費してしまう、デジタルな空間でのグロテスクな観客に私たちはなりはててはいないだろうか。世界は正義や善悪だけではかりしれないものがあり、ゲームのようなわかりやすい構図でできてはいない。歴史はさまざまな出来事が輻輳ふくそうし、交差して地層のように積み上がっている。

最近、戦場からの報道でよく目にする、ロシア戦車や軍用車両などに描かれている「Z」は、“軍事侵攻を支持する”というメッセージのようだが、シンプルな印であるがゆえに不気味さを感じさせる。平板な常套句の執拗な繰り返しとロゴのような象徴的なマークは、プロパガンダとして人びとの脳に刷り込むのに有効だったことは先の大戦でもみてきている。


鳥類、魚類、哺乳類などの動物の数140万種をはじめとして、地球上の生物はおよそ1000万種以上になるといわれている。
今では、ヒトは地球上の自然環境に対してもっとも影響力の大きい生き物になっている。地球上に生活するほんの一種類にすぎない500万年前に出現したばかりの新参者の生き物がヒトである。かつて、地球史の46億年にわたり、一強は存在しなかった。

今、36年前に爆発事故を起こし、依然として広大な立ち入り禁止区域を残すチェルノブィリ原発をロシア軍が占拠している。
原発から出る核のゴミを封じ込めたガラスの個体でさえ人が真横に立てば約20秒で死ぬほどの猛毒性があり、数万年以上にわたり生物界から遠ざける必要があるという原発の施設が今戦禍に置かれ、なおかつ軍事拠点になっているという。あってはならない地球規模での未曾有の事態が現実に進行している。
すでに私たちは「あつかいかたによっては大変危険」な「霊長目ヒト科ヒト」の一強になっているようだ。笑えないジョークだ。


先日久しぶりに九州国立博物館を訪問させていただいた。
調整池の法面一面の、清順さんが手がけた“雲海桜”(注3)はまだ花開いてなく、残念だったが、最近ではこの枝垂れ桜の群生を愉しみにしている人たちが多くなっているとのことだ。
建築家の菊竹清則氏の代表する作品「九州国立博物館」には、建築物そのものを目的に来館する人たちもいる。筑紫のやまなみをデザインした青い屋根のうねりと太宰府天満宮のもり全体を映り込ませた全面ガラスの壁面のダイナミックな建築の意匠には圧倒されるものがある。もちろん、春には枝垂れ桜が青空とともに壁面に映り込み、見事な調和をみせている。

しかしながら現場では些か困ったことが起きている。豊かな自然環境のなかにあるからこそなのだが、壁面のガラス窓に映りこむ青空に飛びこむ野鳥があとを絶たないのである。ミミズクの人形の配置や猛禽類もうきんるいの鳴き声、夜間に野生動物の目を模したライトアップなど粘り強く対応しているものの、野鳥が衝突する事故が止まない。

野鳥たちにとっては、山や森林や青空の映り込んでいる壁面の虚像と現実の世界との境界がないのだ。壁面のガラス窓にはみずからの姿は映ってはいるものの、その飛んでいる姿はおのれとしてみえていないのである。
太宰府の杜に住む留鳥ではなく、渡り鳥がガラスの壁面を通り抜けれるとおもって衝突している。通り抜けれるとおもうのは、もっともなことだ。渡り鳥は一億数千年前から、太宰府の空とアジアの大陸を往来して飛んでいたのだから。ヒトがつくった建造物はまだ数百年にすぎない。

(注1) 神棚や祭壇に供えるなど神事にも用いられる常緑小高木
(注2)チャップリンなどの進歩的自由主義者や共産主義者の追放運動
(注3)九州国立博物館の“雲海桜”


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