【専務 西村栄造のコラム】第14回 「こういう ものです」ー「91×55mmの名刺」のなかに収まらなかったものー
映画館のチケット窓口で客が購入時に「学生、一枚」というのを聞いていた、田舎から出てきたばかりの後続の人が、もっそりと窓口をのぞき込んで「百姓、一枚」といってチケットを買い求めた。
まだチケットの自動販売機のない、窓口販売と半券のモギリがあった時分のことである。
70年代当時のラジオ深夜放送で、その頃個性派女優で売り出していたDJの桃井かおりさんが小噺ふうに紹介したはなしだったとおぼえている。
私たちひとりひとりの社会での在りようをさりげなく問うているような、それでいてどきっとさせられるエピソードであった。
今では、私たちひとりひとりは否応なく、住基カードのナンバー、保険証の記号と番号、パスポートの異様に桁数の多い番号等で数値化、記号化で社会の一員として呼称されている。
よもや窓口販売のチケット売場で名刺を差し出す人はいないだろう、「こういうものですが」と。劇場内でおのれの所属先はなんの意味も持たない。すべての人が言うまでもなく観客のひとりなのである。
長年サラリーマンをやってきたご同輩は定年後、つねに背広の内ポケットやカバンの中に持ち歩いていた名刺が無用のものとなるや、世間に向けてパフォーマンスができなくなるのか、久しぶりに会うといちように、“今はもう名刺もないから”と釈明するように誰に言うともなく零している。
今流行りの唯物史観ふうにいえば、定年は生産活動から消費活動へおのれの社会的存在が転換することを意味するのだろうが、それはなかなか受け入れ難い現実なのである。社会的な存在としてのおのれが不意にみえなくなってしまうのだ。
長年の勤め先を辞するに当たって、警察官や列車の運転手、駅員、自衛官などの制服組は「制服を脱ぐ」という表現で、あるいは多くのひとたちは「一線を退く」などと表明して現役の自分に区切りをつける。
しかしながら、そこから先の長い未知の道のりが待っている。“さて、おのれはいったいなにものなのか、どこに行こうとしていたのか”というおそまきながらの人生問答のようなものがはじまる。
長年ご同輩が肌身離さず持ち歩いていた名刺の由来などについてすこし触れてみよう。
日本で初めて印刷された名刺は、江戸末期、開国の交渉時にアメリカの外交官に渡したもので、多くは家紋の下に名前を書いたデザインだったようだ。蝦夷地(北海道)の根室に来航したロシアの通商交渉人に対して松前藩士が渡した名刺がロシア国立古文書館にも現存している。
今やこの国で使用される名刺は1日約3,000万枚、年間消費量は約100億枚ともいわれており、世界でもっとも大量に名刺を使う国となっている。
この国の“名刺文化”を皮肉っぽく描いていた映画がある。アジア某国の内戦があっている戦場で「私は怪しいものでありません、こういうものです」と必死に名刺を掲げて銃弾が飛び交う戦火の難を逃れようとしている、日本企業のビジネスマンの姿を描いている映画『僕らはみんな生きている』(1993年作品)にそのような滑稽なシーンがある。この国はいつの頃か、風刺的に描かれるように大量の名刺を世界中にばらまいてきたのであろう。
ところで「手紙」とは、中国語では本来トイレットペーパーのことを指すようである。なるほど、手で用を足す紙、文字通りの直訳である。レターの手紙というのは中国語訳では「信函」というのだろう。
「名刺」の起源はというと、紀元前2世紀ごろの中国。紙はまだ歴史上に存在せず、姓名を記した木片を「刺し」といったところからこの名がある。紙文化の到来前である。
ちなみに古代では用を足すときにも籌木の木片が使われていた。長岡京や平安京、九州の博多の鴻臚館などのトイレ遺構にそれらが発掘されているが、平安から鎌倉初期の戦乱期に描かれた国宝絵巻『餓鬼草紙』にも木片の“糞べら”なるものが描かれている。
話を戻すと、「刺し」は、訪問時に在宅かどうか尋ねる簡単な挨拶を添えた、いわゆる「置き手紙」の木片のことで、三国時代の呉の武将・朱然の墓の副葬品として発掘されている。これが現存する最古の名刺とされている。
名刺と直訳でいうところの「手紙」は、用途は違えど両者とも木片を起源にしていることから歴史的な由来としては同じようなものといえるのだろう。
17世紀後半のルイ王朝時のフランスの社交界では、風景画や自邸の銅版面や写真をとり入れた華やかなものになり、今ふうのロゴマークやQRコードを使った名刺のあつらえと似通っていたようだ。
アメリカでは19世紀後半の南北戦争後に社交界のステイタスとして使われていたが、現代の欧米諸国では日本のように賀詞交換会や異業種交流などと銘を打った名刺交換の催事は行われておらず、この国独自の“名刺文化”のようである。
私自身としてはこういう手合いの交流の場が不得手であった。
巧みな飾り言葉や、愛想のいい顔をする人々には「仁」あるいは「義」の心映えが少ないという、孔子の論語『巧言令色、鮮なし仁』を弁解に拝借して、参加してもいつも会場の壁際にたたずんでいるのが落ちだった。
なおこの国では、皇室の方々に名刺を差し出すのは非礼とされているので、交流の場とはいえくれぐれも留意されておいたほうがよい。
さて、銀行窓口等では身分を証明するものをときまって求められる。
窓口担当者と顔なじみであっても、免許証等の類を事務的に求められるのはなんだか滑稽であり、いわんや突然の「なにかご自身を証明するものはありますか」という問いには実存的な問答のようにも聴こえ、つい「いえ、そんなものは‥」とまごついてしまうものだ。
当たり前のことに公の機関では名刺の肩書は効用がない。もちろん冒頭のくだりの劇場窓口においてもだ。
所属先や肩書を紹介している名刺には社会的な普遍性はないのである。この社会のなかに存在している証は、あの小さな91×55mmの名刺というカードのうえにはなにも印字されてはいないし、そのなかにはおのれもそもそも収まっていないはずだ。
最近では、毎日社内では首から身分証明証を吊り下げて、入退室時の危機管理、勤怠管理上のパスカードにも併用されている。
深夜近くの帰りの電車のなかで所属先の証明書をぶら下げたまま、疲れてうたた寝しているひとを見かけると、ちょっともの悲しくなるものだ。
やがて多くの人たちはいずれかの時期に名刺を持たなくなる。
現役を退くと、あれだけの受信歴があった携帯電話が途端に静かになる。年賀ハガキが急激に減る。呑みごとの頻度が減る。身の回りが静かになる。
対外的な関係は地位やポストが消滅すると同時になくなる。とどのつまり、つながりはその人個人とではなく、ポストや座っている“椅子”とのつながりだったということを思い知らされる。名刺の裏表の関係はあくまで所属先を通した利害のつながりであることを痛感することになる。
花束を抱えながら送別の拍手に送られたあとしばらくは、これからの帰属先はおのれ自身になるのだという覚悟が熟し切れないままの日々が続く。
引退した人たちは、わざわざ人混みのなかに出かけるということをよく耳にする。
かつては、ウィークデイに休んで出かけるのがひそかな愉しみだったのが、敢えて休日の混雑時のなかに身をおくことによって社会的な存在としての自分自身を再確認するために土日に出かけるというのだ。街の喧騒のなかでみずからを体感しようとするのである。
自由という支えを失った孤独感、ともいえるものだろうか。
それでもやがて、人の蘇生力というのは、それまでの狭い世界の箱庭から地下茎のように地中深く外にのびていって、じんわりと醸成されていくものなのである。
源じいさんは、3年前に集中治療室ICUで気管や血管などいろいろなチューブを身体中に繋がれて、しばらくの間入院していた私自身の体験上からの仮想の人である。同じように寝たきりの重度の症状の方は身近に多いとおもう。
入院している寝たきりの源じいさん(仮名)にとって、身体の可動域が数十センチメートルのベッドの上の世界がすべてである。
ベッドの横に置いてあるポータブルトイレに行くのに、彼にとってはまるでチョモランマやカラコルムのK2の世界のもっとも険しい山々に挑むのに等しい決意で少しずつ身体の可動域を広げて毎日チャレンジしている。廊下沿いのトイレにたどり着くのが最高峰の夢の登頂である。源じいさんは日々のなかでの途轍もない冒険家なのだ。
病室のベッドは源じいさんにとっておのれの存在の場なのであり、廊下のトイレの夢に挑み続けるベースキャンプのようなものでもある。
病院の集中治療室ICUは不思議な空間だ。死に損なうのと生き損なうのとはコインの裏表みたいなもの。だから、繰り返しコインを空に弾きあげては、「うらおもてどちらでもOK!何処にでも!」なのだ。そんなふうなことをおもって何本ものチューブに繋がれ生かされている、あの世とこちらの世とを行ったり来たりしている境目のようなところだった。
薄暗い病室の天井の染みを数えては、毎日“山頂“にアタックしている源じいさんにおもいを馳せながら、私は集中治療室での1ヶ月をなんとか乗り切った。
一線を退き、名刺を手放した人たちは、孤立感に苛まれては未練や諦念が入り混じった迷走を繰り返しながらも、やがて、それまで纏ってきた鎧を外し、それぞれの暮らしの場でかつて名刺のなかに収まりきれなかったおのれを蘇生させていく。生きていくうえでの余計なものが次第に削ぎ落とされるのだ。
今まで追われていた暮らしの傍らに確実に流れている悠久の時の流れに気づき、これまで見えなかったものが次々に見えはじめる。
喩えると、ちょうど、近視が進み、初めて眼鏡をかけた日、世界はこんなにもはきとしているものかと感動したようにだ。見馴れた風景にあらたな物語を見いだしたりもする。
そして、それまでおのれを悩ませていた懸案が芥子粒のように小さくなって、いつのまにか消え失せる。
留守と言え
ここには誰もおらぬと言え
5億年経ったら帰って来ると言え
(高橋 新吉 作 詩『るす』)
薄翅蜉蝣のように、幼虫のとき、蛹のときに糞をせずに我が身の栄養としてすべてを吸収しておいて、成虫になり、ようやくしてから糞をすべて身体から捻りだすようにして空に飛び立つ昆虫がいる。
高齢になった今でも、「大きくなったらなんになろうか」とおもっている矍鑠した老人がいる。
我が社に今期の中途から、植物の造詣が深い、植物業界のレジェンドである齢60を越えた越智さんが存在感を漂わしてやって来た。
高齢仲間(失礼!)として頼もしいかぎりである。培ってきた経験や知識を次世代でさらに進化させようと、すでに若い人たちを触発し牽引していっている。
現代医学では、人の身体は7年で完全に入れ替わるという。ならば、今年の初夏で私はほぼ10回ほど入れ替わっていることになる。
映画館の窓口では“爺じい(シルバー)一枚”といってチケットを求めながらも、今しばらくはこの世界で生きていくことを放棄するわけにはいかないのだろうとおもっている、さて。
了
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