【専務 西村栄造のコラム】第12回「古くならないふるいもの」 ー“蓄音器に耳をかたむける犬” ー
技術革新を必要とするものはいずれ陳腐化する。
今さらだが、ガラケイはガラパゴス化した旧い機能の携帯の略称のこと。その呼び名の由来すら忘れるほどに、携帯電話は目まぐるしく変わっている。今あるスマホがいずれガラスマなどと呼ばれるのもさほど先の話ではないのだろう。
文明は時代遅れというレッテルを貼り、かつて新しかったものは姿を消していく。人びとの口々に盛んにのぼったあげくに使われなくなり時代から退場する。流行りはその名のとおり一過性であり、ブームに点いていた火はやがて吹き消される。
それでも、時のふるいにかけられて、残るものがある。
世界を席巻し、すでにスタンダードになっているこの国古来の固有のものがある。グランドピアノのあの漆黒の色が日本の漆であることはあまり知られていない。
18世紀、フランスの王妃マリー・アントワネットの母、女帝マリア・テレジア曰く、「私はダイヤモンドよりもjapan(漆器)よ」と言わしめたほど、漆黒はヨーロッパの王侯貴族を魅了していた。
ピアノは江戸時代に日本に入ってきた。その頃のピアノは、ヨーロッパ基調の木目調であったが、多湿な日本の気候に適するように漆で塗ったところ、鏡面仕上げの漆黒のピアノ塗装が世界中にいっきに広がったというのだ。
日本では漆の樹は縄文時代のいにしえより、人里に近い里山で植栽されてきたものである。
それぞれの時代の人びとの手で守られてきたものに珠玉の有形、無形の文化財がある。それらは時を経るほどに斬新な輝きを放ち、まさしく古くならないふるいものの品々である。逸品といわれるものは、時代のふるいにかけられるそれ以前に時の流れがとまっている独自の空間を法衣のように纏って存在しているかのようである。
明治維新当時、五代友厚らとともに関西の経済界をつくった藤田傳三郎の蒐集した貴重な品々が収蔵されている大阪の藤田美術館に、国宝の『曜変天目茶碗』のひとつがある。
星や光り輝くという意味の曜変(陶磁器の焼成中に起きる予期せぬ変化“窯変”が語源)の呼び名のとおりに青く深い光彩を放っている中国の宋時代の禅の茶碗である。その星紋と虹彩模様の神秘的な美しさは、千年前のものでありながら、今なお私たちを魅了してやまない。
余談だが、如何に国宝であろうともときにはお茶をたてることがその茶碗を保存していくためには最善の方法とも聞く。その真偽はともかく、もしそのような機会にめぐり合うようなことがあれば、ぜひ茶を所望し保存にひと役買いたいとひそかにおもっていたものである。
最近はレコード盤がCDの売り上げを抜いているという。
今から半世紀前に蓄音器を発明したのはトーマス・エジソンだ。初めて流れてきたのは、本人が吹き込んだ「メリーさんの羊」という逸話はよく知られている。
レコード盤の溝に針を落とし空気の振動でスピーカーからザーザーという音ともに全身に伝わる素朴な音の響き。イヤホンで聴くデジタルの音に慣れ切った若い世代には、身体が柔らかく包みこまれるようなみずみずしい感覚になるのだろう。
“蓄音器に耳をかたむける犬”のビクターのロゴマークがある。今では懐かしさすらおぼえるロゴだ。これは、1800年代後半にイギリスの画家フランシス・バラウドによって描かれた、亡くなった主人の声を聞いている犬の絵をもとにしている。
モノクロのレコード盤に耳をかたむけている若い人たちの姿が、何故かこの“ビクター犬”のイメージにダブってしまう。懐郷の念とともに、デジタルの世界で失った温もりの体感を求めてみずからに回帰する姿を飼い主の声をとおして今を確認している“ビクター犬”にオーバーラップさせているからかもしれない。
文明の利器の蓄音器は、どうやらこの世紀の文化財のようなものとしてモノクロのまま人びとのかたわらで息づいているようだ。もう技術革新も不要な人びとの財産となっている。
そういえば今、未来に残したいものを東京国立博物館の150周年事業として広く公募していると聞く。面白い取り組みだ。
さて、今の世に、かつてのトーマス・エジソンの蓄音器に替わるような後世に残したい次なるものをはたして私たちは持ち得ているのだろうか。
高度成長期までの時代は購買力が低く、また物は使えなくなるまで大切に使うべきだということが人びとの暮らしのなかに常識としてあった。
子供の衣類や育児用品のように、まだきれいな状態のまま本人の成長により使えなくなるものは、兄弟姉妹あるいは親族・知人間での「おさがり」が当然の時代であった。
1980年代には、「三女・おさがり節」(NHKみんなのうた、みなみらんぼう 作詞作曲)という曲があった。この曲は、三女であるばかりになにもかも「おさがり」になってしまう女の子の気持ちをユーモラスに歌っている。
♪上のねえさん キラキラ長女 二番ねえさん いぶし銀 そして わたしは ボロボロ三女 泣いて笑って おさがり節
それでも、おさがりの古着は、世代間で大切に受け継がれ、三女が着ると破れ穴から息を吹き返してキラキラと輝いていたのかもしれなかった。
箪笥の奥には亡き母の訪問着の大島紬が樟脳のにおいにつつまれて、そのままにしてある。いつか誰かが袖をとおして帯をしめてくれる「おさがり」を待っているかのようにひっそりと和紙で折り畳まれている。
記憶は古くなっても、新しい。からだの奥底に沈んでは、ときにおもいでとなってまなうらに浮いてくる。
初めて人の死体をみたのは祖母の遺体だった。
まだ火葬場が今のような熱処理の高炉ではなく、火をいれて焼却をしていた時分のことである。焼却炉に覗き窓があり、死んだはずの祖母が燃えさかる炉の中でスルメのように立ち上がったのを鮮烈な幼少の記憶として残っている。
「あ!おばあちゃんが起きあがっている」とおもわず声をあげていた。祖母は長い間寝たきりだったのである。
火葬場の外では、煙突から白い煙が真っ青な空にまっすぐのぼっていくのを母たちが手庇をして見上げていた光景をおぼえている。
親が待つ家や昔住んでいた家に帰ろうとし、家並みも全く違う街のなかで彷徨い続ける高齢者が増えている。徘徊は、記憶障害により自己認識がリセットされるからだという。
母はまだらボケから症状が進み、床に伏せるようになってからは私のことをすでに亡くなっていた母の弟だとおもっていた。私は、末期までそのまま母の弟として寄り添っていた。
記憶がよみがえり、彼女のなかで古い人生が更新されて新しくはじまっていたのだろうとおもっている。
古くなってもふるくならないものは、人がそれぞれに生きてきた時間なのだろう。
了
《 追記・アジア編 》
いにしえのものに対する考え方は国によって異なる。
タイのラタナコーシン朝時代 の『ラーマ2世王作の大扉』(バンコク国立博物館所蔵)という5.6メートルを超える大きな扉がある。19世紀初頭に創建されたワット・スタットという第一級王室寺院の正面を飾っていたものである。
国王ラーマ2世が自ら精緻な彫刻をほどこしており、王室とともに育まれたタイ文化を象徴する至宝である。チーク材の扉の表側には、天界の雪山に住むとされるさまざまな動物たちが重層的に表わされている。裏側には寺院を守る鬼神たちの姿が描かれている。この扉の完成後、ラーマ2世は他に同じような扉を作らせないように、使用した道具をすべてチャオプラヤー川に捨てさせた、という逸話が残っているほどのものである。
火災で一部が焼損を受け、その後処置を施せない状態だったが、2013年から日タイで協力し、保存修理作業を進めて来ていた。
ところが、日本(九州国立博物館)の修復方針は焼損も含めてでき得る限り古来そのままに、一方、タイ(バンコック国立博物館)の修復の考え方は黄金色の原形に復元させることであった。
この修復方針についてお互い相容れずに、ぶつかったまま修復作業がなかなか進まなかったのである。
大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)、あるいは考古の文化財に対する見解の差異なのか、よくわからないまま激論に及んでいた。
タイやミャンマーなどの市中のパゴダ(仏塔)や仏陀の涅槃像のほとんどは黄金色に輝いている。
古くなった仏塔を各所で修復している様子は一見すると黄金色の塗装作業のようにもみえたが、アジア各地の寺院を往来するうちに、次第にその修復作業はいにしえの仏陀を今に甦らせようとしている人びとの信仰そのものではないかと考えるようになった。
バンコック国立博物館の修復の考え方の底にあるのは、畢竟、古来の文化財の保存のためだけの修復ではなかったのだろうとおもう。タイは、今でも成人になると出家をするという教えが暮らしのなかに根づいている国である。
ミャンマーのエーヤワディー川(旧称イラワジ川)中流の東岸、約40kmにも渡り広がる平野にバガン遺跡群がある。数千基ものパゴダ(仏塔)や寺院が点在して立ち並ぶ姿が荘厳ともいえる風景を作り出し、その仏塔のほとんどが黄金色に輝いている。
そこは、私たちが京都や奈良で古刹を拝観するというような歴史遺跡の訪問の地ではないのである。バガンの仏塔は今でも多くの巡礼者が訪れる日々の信仰の場なのである。
すこし傍道に逸れるが、ミャンマー訪問時にいつも町を案内してくれたのは年恰好も落ち着いた不動産屋の社長さんであった。若いときに働いていた新宿の焼き鳥屋でおぼえたという日本語、「とりあえず、生(生ビール)!」が彼との毎日の挨拶の言葉であった。ほかの日本語は「バカやろう!グズグズするな!」といった日々罵倒されていた言葉以外、すっかり忘れたという。
彼とは毎日、「とりあえず生!」という奇妙な挨拶を交わしていた。ヤンゴンには冷えた生ビールはなかったのだが。
彼はいつもインフレの通貨紙幣のチャットを手提カバンに大量に詰めこんで宅建事業に奔走していたが、どのようなときでも僧侶に出合うとかならずひざまづいて礼拝を欠かさない敬虔な仏教徒であった。
渋滞する軍関係者の車列の窓をたたきながら物乞いするように花を売り歩いていた子どもたち。ヤンゴンの旧市民街の日々の光景だった。もう6、7年も前のことだ。
今では軍事独裁政権になり、貧困に加えて人びとはさらに理不尽な弾圧にさらされているのだろう。今日も英国のBBC放送から“少なくとも40人が拷問を受け生きたままトラックの荷台で火をつけられて国軍に虐殺された”という報道が流されている。
ミャンマーの北部、旧ビルマの山岳地帯には、76年前、武器、食料等の兵站もない無謀なインパール作戦で亡くなった日本人兵士およそ7万2千名の遺骨がまだ眠ったままである。衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者が次々と脱落し、退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい惨状から白骨街道と呼ばれていた。
今、その山岳地帯が軍事独裁政権と闘う民主市民組織と少数民族の拠点となっているようだ。
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