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専務 西村栄造のコラム】第10回「時代の忘れもの ー谺(こだま)するシャッター街ー」

太古の月は今の大きさの6倍あったという。
月までの距離は今およそ38万キロある。今というのは、月は毎年3.8cm程ずつこの地球から離れているからである。月は太古の時代にはうんと近くにあった。

月は、地球の破片でできたともいわれている。
遠い未来、月は次第に地球から離れて、独自の自転と別の惑星とのあいだにあらたな公転をつくっていくのだろうか。


町並みが根こそぎ変わっていくのを見ながら、まるで自分はマーキングした電柱が次々に抜かれた犬のようだ、という言い得て妙ないち文がどの誌面で見かけたのか思いだせないまま、こころに留まっている。

空き店舗に下ろされたままのシャッターには閉店セールの古い貼り紙やポスターが剥がれかけている。商店街の裏地は手狭なコインパーキングがあるだけで、虫食いの空き地だ。
誰もいないアーケード街は薄暗いトンネルのように駅前までつづいていて、錆びついたシャッターは、からっ風が吹き抜けてカタカタと揺れている。駅はこの数年前から無人駅。いずれ廃線になるという。

あのにぎわった日々は、時の流れの暗渠あんきょのようなよどみの底にそのままひっそりと潜んでいるのだろうか。私たちの記憶のうらがわに張りついたままだ。

ー 商店街には、洋品店、雑貨屋、蒲鉾屋、魚屋、肉屋、野菜屋、煮物屋、豆腐屋、電気店、靴店、本屋、楽器・レコード店、花屋、食堂、純喫茶、それに、メロンやバナナたちがうやうやしく籠盛かごもりされていた果物屋さん、ああ、そういえば、お風呂屋さんもあった。

お風呂屋さんといえばワッペン騒動だった。いきぶるおあにいさんの背中の彫り物の刺青いれずみを“ワッペンだ、ワッペンだ”と浴場ではやしていた子どもたちと傍らで身体を洗いながら青ざめていた父親。苦笑いするしかないおあにいさん。お風呂屋さんは、さまざまな人びとの町の社交場だった。

戦後のバラックのような露店の集まりが「降っても照ってもアーケード街」というふれ込みの屋根付きの商店通りになったのが1950年代頃以降になる。
店先での客とのやり取りと威勢のいい呼び込み。店内からは食材の湯気とにおいが立ちこめていて、アーケード街は大勢の人たちが往き交う活気に溢れた市井そのものだった。


さらに、町のにぎわいの中心はなんといっても映画館でもあった。どの地方のどの町にも小屋(映画館)があった。
昭和の半ばには全国で映画館数は7000館を超えており、集客数は11億人超にのぼっていたという。『鬼滅の刃』の客動員数が2400万人を超えて興行収入が現在の国内トップということから推測しても、その当時の盛況ぶりは相当なものだった。
小屋の正面頭上には、等身大の銀幕のスターたちの手書きのペンキ絵の大きな看板が架けられていた。映画宣伝用のその看板は高さ3m、幅は4mはあり、見上げるほどの圧倒感と絵の中の石原裕次郎が今にも動きだしそうなリアルさがあった。

「あ、健さん、うしろ、危ない!」「卑怯な奴らだ!」
銀幕のなかで唐獅子牡丹の彫り物もんもん背負ったしょ高倉健がドスを抜いての殺陣たちまわりの鉄火場のようなシーンでは、観客から合いの手や野次が飛び交っていた。大川橋蔵扮する銭形の親分が呼子笛を吹き、奉行所の門が開いて馬に乗った奉行やたすき掛けの役人たちがいっせいに馳せ参じる、捕物の極めつけの場面では、「早くッ!はやく、急いで!」と観客席から身を乗り出すようにして、いっせいに拍手がわき起こっていた。
通路や壁まわりは立ち見客で立錐りっすいの余地もなかった。今でいう、ファンキーなライブハウスさながらの、それもノリノリの老若男女がコールをくり返しているステージを想起してもらっていい。熱気で小屋が揺れていたのである。

同じ場所に映画館が複数乱立していることもあり、日活、大映、東映、松竹、東宝系の五社をすみわけてそれぞれの系列のフィルムをかけていた。映画は二本立てか三本立てが主流で、オールナイトでは五本立てというのもあった。観るのも体力勝負であった。
レコード盤にA面、B面とあったように映画にも二本立てのおまけのB級映画というのがあった。ちなみに『チゴイネルワイゼン』などの独自の幽遠(ゆうえん)な映像美学で国際的にも評価の高い、『ルパン3世』の監督でもある鈴木清順さんはB級映画出身であった。


話がさらに横道に逸れるが、各小屋には、複数本の映画の休憩時に座席のあいだをねり歩く売り子の菓子類にもそれぞれに特徴があった。
今でも忘れられない味の菓子に、黒砂糖と生姜で作った糖蜜を表面に塗り、乾燥させた甘い黒棒がある。九州の方言で「くろんぼう」と呼んでいた。
「くろんぼう」の味が波止場ポーズの石原裕次郎や早撃ちの宍戸ジョーのイメージと重なっているのは、日活系の館内の名物菓子が「くろんぼう」だったせいなのだろう。
モナカのアイスはいずれの館内でも定番であった。映画熱のノボセモンのアタマを冷やすには欠かせなかったアイスだったのである。


昭和の半ばまでは、米を購入する際の身分証を兼ねた米穀通帳なるものが各家庭にあり、醤油や味噌のたぐいは“ちょっとお隣から借りてくるわね”とご近所さんで融通し合っていた時分である。
ときにはしがらみとなりながらも、地域には向こう三軒両隣などの根強い地域コミュニティがあった。今では信じ難いかもしれないが、町内会では団体旅行も催されていたのである。

『東京に行くな、ふるさとを創れ』と詩人の谷川雁が同時代の知識人たちに呼びかけていたのも、労働争議などが頻発していたこの頃だった。
炭鉱の労働運動もまた、三軒両隣の醤油や味噌を分け合う社宅ぐるみでスクラムを組み、生活まるごとを賭して展開されていたものだった。


昭和が終わる頃には、製鉄所の夜勤明け労働者のための立ち飲み屋が軒を並べていたどぶ川沿いの柳並木の風景は、撤退した企業の下請の町工場群とともに消え去った。

入り組んだ露地には“ぬけられます”という立て看板があちこちにあって、その時分、私娼窟ししょうくつのような露地裏文化の妖しげなにぎわいもあった。
今では、軒続きの立ち飲み屋は取り壊され、ぬかるんで入り組んだ露地やどぶ川も整備されて、こぎれいな町にはなったが、あのときの人いきれや雑多な生活音はなくなってしまった。
映画館も近郊の大型商業施設のなかにシネコン化され、かつての小屋の面影は今では何処にも見当たらない。

人びとのエネルギーに満ちていた地方の時代は、戦後復興から高度成長期が終わるその頃に熟した果実がほぞ落ちるように、終わっていたのかもしれない。


今年の夏、漁村の町の廃校の再生事業について某市から弊社に相談があった。廃校は旧5町村にわたる11校におよぶものである。
いずれの場所も入江沿いの良港の町にあり、かつての水揚げ量は相当なものだったのではなかったかと現地をめぐりながら以前のにぎわいぶりを想い描いていた。

今、全国的に学校の統廃合が進んでいる。
近年では毎年約 500 校が廃校となっており、過去 15 年間で生じた廃校は約 7,600 校にものぼるという。その約 1/4 の廃校は、施設の老朽化、地域からの要望が無いこと、立地条件の悪さやかさみ続ける維持改修費用等が理由で時代の忘れ物のようにそのまま放置されている。

廃校の11校は、合併前の5つの旧町にそれぞれにあった学校である。
廃校の背景には、全国市町村数が3,000超からほぼ半数に減少した平成の大合併という国の地方に対する“合理化施策”がある。その頃を境に市町村の財政状況はいっきに悪化していったのである。
近隣の市町村が統廃合されると、それまでの旧町村の中心地は大きな市に吸収されて市域の外れに位置することになる。その結果、旧町村の過疎化が進み、校舎をはじめ旧役場庁舎や体育館などが不要な空き施設になり、廃墟の公共の建物が全国各地にいっきに増えたのである。

教室の黒板に残されている子どもたちの絵と針の止まっている教室の時計。
廃校の玄関に掲げてある校歌に謳われている『希望』や約束されていたはずの『未来』は、当時の子どもたちにとっていったい何だったのだろうか。

埃の積もった廊下の向こうから聞こえてきそうな子どもたちの甲高い声は、町のシャッター街のアーケードの天井にやるせなくこだまし、過ぎ去った時代の彼岸でいまだにうねっているかのようだ。


廃校のこれら見捨てられた光景はどこかでみたことがある……デジャヴュのようなものが頭をよぎる。

大多数の繁栄や安全のために地方の片隅が犠牲になり切り捨てられる構造。福島の原発のいまだに生活音のない閉鎖されたままの帰還困難地域の東北の町々や公害で切り捨てられた各地域にも同じ光景があった。

水俣病、不知火(しらぬい)海一帯、新潟の阿賀野川あがのかわの有機水銀汚染、富山県の神通川じんつうがわ流域、長崎県対馬のカドミウム汚染(イタイイタイ病)、三重県四日市の大気汚染、島根県津和野つわの、宮崎県高千穂の砒素ひそ汚染、黒い胎児事件が頻発した西日本各地の食品汚染(カネミ油症)。
公害の被害実態については、土地への風評被害や風土病としての差別や偏見をおそれて住民たちはひたすら隠さざるをえなかった地域もあった。

水俣病の発生初期には、狂ったような状態や意識不明になって、発病から1ヶ月以内に亡くなるといった重症者もいた。家では、まず猫がもんどり打って悶死していた。
漁師たちと同じように魚を食べてきたネコの足はもつれ、狂ったように走り、海へ飛び込んで死んでいった。「猫踊り病」といわれた。やがてヒトにも同じ症状があらわれた。

汚染された魚を食することによって体内に入ったメチル水銀は、主に脳など神経系を侵し、手足のしびれ、ふるえ、脱力、 耳鳴り、目に見える範囲が狭くなる、耳が聞こえにくい、言葉がはっきりしない、動きがぎこちなくなるなど様々な症状を引きおこし、胎児にも影響が出ていた。

貝や魚や鳥たち、この世のもっとも弱き者たちから傷つけられていった。
水俣病は、山間部の集落でも多くの人たちが発症していた。水銀に汚染された不知火しらぬいの海の魚は毎日のように山道を越えて行商されていたのである。


近代産業社会は企業公害を土地の風土病、奇病として地域にその因果を転嫁し、被害者の方々を切り捨てていった。
今この国は、国際的なSDGsや脱炭素を掲げる前に、地方の抱える負の遺産はいまだ清算されていないことをまず踏まえるべきではないだろうか。

この秋、水俣病を世界に告発し、患者さんを撮り続けていた報道写真家のユージン・スミスの生涯をジョニー・デップが主演し映画化されたのが話題になった。
胎児のときに水銀に侵されて全身不随の「智子さん」が母親に抱き抱えながら入浴しているモノトーンの一枚の写真。世界を揺さぶったユージン・スミスの映像である。その時の撮影現場が命の尊厳の美しさにつつまれるようにていねいに再現されていた。

映画自体にいろいろな論評はあるものの、現在までに1万7000件を超える認定申請がある水俣病があらためて世界に発信されたのではないかと期待されている。
すこし深掘りになるが、一方で、今なお再注目されることで差別や偏見を不安におもう住民感情があり、地元の美術館等での写真展などでの展示がこれまで避けられてきており、今回のジョニー・デップの映画の地元上映会にあたっても市からの後援は拒否されている。
そういった現況下で、亡きスミスの妻のアイリーンさんが地元のつなぎ美術館で『MINAMATA』の写真展を開催したのは水俣病の風化を防ぎ、あらためて公害の本質を問いかけるということからも大きな意義があったのではないかとおもう。

水銀汚染は現在なお、中国の吉林省の松花江流域、アマゾン流域、フィリピンのミンダナオ島など世界各地に拡大しているのである。


不知火の海を水銀汚染の海にした、明治以来この国の化学工業界を牽引してきたチッソの本社は社名を変えて東京にあり、東京関東圏の電源をまかなっている原発は東北の沿岸沿いの小さな町々に点在している。
東京はすべての村や町、地方都市を呑み込み、ときには唾棄だきするように切り捨てて、ひたすら巨大化し続けてきた。
一都三県の都市圏の人口は今や、3600万人以上に膨れあがっている。紛れもなく世界最大級の都市である。東京はもはや対地方としての中央ではなく、世界の大都市と競合するこの国唯一の都市となっている。

「地方の時代」という待望論がふたたび出て、かれこれ半世紀になる。
すでに東京対地方の構図は刷新されて、自立した「地方の時代」はすでに到来しているはずだった。しかし、現実はそのような構図にはならなかった。
シャッター街の周辺には、「銀座通り」や「みゆき通り」「あおやま通り」といったミニ東京を気取った通り名が時代の忘れもののように残っているだけだ。

この先、地方に企業が誘致されたとしても、効率化された生産ラインからはかつてのような雇用は期待できず、あのにぎわいのあるアーケード街をつくり出したような企業城下町は二度と生まれないだろう。
かつての高度成長期の再来がこれからの時代の指針になり得ようもない。
時代が成熟したということは、そういうことなのだろう。


初めてコロナ禍の緊急事態宣言が発出されたとき、東京の夜から高層ビルの窓に映り込んでいた華やかな明かりがいっせいに消えて無くなり、真っ暗な闇が東京によみがえっていた。

住民基本台帳上、この数年東京では転出超過が続いているという。まぎれもなく東京から人びとが少しずつ地方の町々に流出しはじめているのだ。
人びとが密を避けて、たゆたふとした時間の流れる町や村にあらたな価値やみずからを実感できる居場所を見いだそうとしているのだろうか。ロンドンなどの世界の大都市にも同じような脱都市の現象が起きているようにも仄聞(そくぶん)される。
パンディミックのこの時代、これから街がどんなふうに変容するのかわからない。

ところで、邪馬台国説は沖縄まで含めると実に全国で90箇所にも及ぶという。邪馬台国説は沖縄にもある。もちろん、東京にはない。いずれの町や村もそれぞれがこの国の中心という地方としての矜恃(きょうじ)をいまだに持っているのである。
人びとのこころの原風景は地方にこそ在るのだろう。この先は、「時代」の方が地方を追いかけていくやもしれない。

〈 氷期と間氷期が繰り返される数万年単位の気候変動で地形が変化し、海に戻れなくなった生物は、それぞれの場所で進化を遂げたという。
海からの遡上をやめてしまったサケもいる。
海へ戻らなくても、内陸型という新たな環境の中で生き延びてきている。湖に残ったグループは、サケとは言わず、ヒメマスと名付けられた。アイヌの人たちはカパチェッポと呼んだ。〉