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【専務 西村栄造のコラム】 第7回 「連なりと、あと先」

寿司屋のカウンターに座って、にぎりを頬ばりながらボキッと音を立てて箸を噛み折ったときには、店の主人は寿司を握る手を一瞬止めて、何があったのかとカウンターの中から覗き込むようにして、しばらく怪訝けげんそうにこちらを凝視していた。
主人と目が合い、なんでもないと言い訳の素振りをするものの、そのときの余白のようながいつもなんともはやなのである。

そんな出来事はうどん屋さんなどでもたびたびあった。たまに折れた箸が口の中に残ったままでひと騒動したこともあった。いつのまにかカウンター席は苦手になっている。


口腔の癌手術後は、癌細胞の転移の状況の観察とともに、食事療法と言語療法が治療の大きな柱となっていた。

切開手術のために呼吸と食物の通り道の咽喉を遮断し、呼吸のためだけのバイパスを通していたので、しばらくは流動食だった。
数ヶ月後にようやく5CCほどの微量の水をスポイドで流し込む練習から始めて、その後にお粥やプリン状の柔らかなものを1時間以上をかけて少しずつ咽喉を通して胃に流し込んでいた。食したものが肺に行かないように誤嚥ごえんを防止するための食事療法が続いた。
ペットボトルのお茶を喇叭らっぱ飲みすることなどは永遠に叶わぬことだとおもっていた。

人間の咽喉は気道と食道が一緒の通り道になっている。咽喉にあるふたつの蓋を開けたり閉めたりして、呼吸と食事をする時の道を交通整理をしながらそれぞれ確保するという構造になっている。音声を発する声帯は気道の途上にある。
したがって、人間は食物を飲み込みながら同時に話すことはできない。
会食というのは口の中で食物をくちゃくちゃと咀嚼そしゃくしながら話している、行儀の悪い状態なのである。


流動食が外れての、食物を喉元に通すという食の行為はさながら格闘だった。

口腔のなかで食物を歯で噛み砕き、舌で喉元に送り込む。ところが、舌で円滑に送るという今まで無意識に行っていた、この作業ができない。そこで、二本の箸を駆使して送り込む。
箸先の繊細な動きが舌の動きを補完するのである。スプーンやフォークでは役に立たたない。
箸の文化圏にいることにあらためて感謝したものだった。

ちなみに、世界ではアジアを中心にした約3割の人が箸で、4割が手で、残り3割がナイフ・フォーク・スプーンで食事をしているという。

しかも、箸が韓国の金製ではなく、日本の木製や竹材の箸なので救われたのである。
口腔の運動機能がまだ十分に復活しておらずに、退院後も食事の最中にたびたび箸を歯でへし折っていたからである。
冒頭の寿司屋での場面もその出来事のひとつである。

命を支えはぐくむというのは、普段ではおもいもしない細やかな人体の機能で成り立っている。失ってはじめて、そのことに気づかされたのである。


「祖死父死子死孫死」という、禅僧の仙涯せんがい和尚の言葉がある。
「祖父死ぬ、父死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」順ぐりに逝くという“かけがえのなさ”についてのおしえである。

仙厓さんは、博多聖福寺はかたしょうふくじの臨済宗の禅僧でありながら、軽妙な筆致で江戸時代の庶民の姿などをユーモアたっぷりに洒脱しゃだつ飄逸ひょういつに描いている、仙厓義梵せんがいぎぼんという名の絵師でもある。

仙厓和尚の言葉は、前の世代からバトンを受け取り、次世代に順ぐりに受け渡していく生命の連続性のなかで、死は終わりであると同時に次の始まりでもあることを諭している。

  新緑が萌える初夏の山々、生まれたての赤ちゃんのふあふあとした手のひらや頬っぺた、青空に映える春の桜の花房。
生命力のみなぎっているものに私たちは本能的に惹かれる。
しかし、命の芽吹きの背景には、無数の散った花々や亡き祖先の連なりがある。
人間にかぎらずに衆生しゅじょうというものは世代を繰り返しながら時を超えて存在しているということなのである。生物全体の生まれ変わりからみれば、死を引き起こす老化も次の世代が生きるために進化の過程で獲得してきた仕組だとするならば、仏語でいう四苦八苦のうちの「生老病死」の四苦は、生きものとしての人の最善のプログラムをあらわしていることになるのかもしれない。ー 人は死しても霊は遠くに行かずに、故郷の山々から子孫を見守り、正月や盆には「家」に帰ってくる。人の生まれ変わりを信じることは、次の明朗な社会を期すること、つまりより良い社会を夢見て信じることである。 ー

このようにあらわしたのは、『遠野物語とおのものがたり』でも知られる民俗学者の柳田國男やなぎだくにおである。

出典:「指月布袋」〈あの月が落ちたら誰にやろうかい〉福岡市美術館(石村コレクション)所蔵 85.7×27.3cm


 

肩は / 首の付け根から /
なだらかにのびて。

肩は / 地平線のように / つながって。

人はみんなで / 空をかついで
きのうからきょうへと。

子どもよ / おまえのその肩に
おとなたちは / きょうからあしたを移しかえる。

この重たさを / この輝きと暗やみを
あまりにちいさいその肩に。

少しずつ / 少しずつ

《空をかついで  石垣りん》

世代をつないでいく詩である。時代の重たさや暗やみをも力強くつないでいっている。

「おばあちゃんが死ぬ時には、あんたの病気をぜんぶ持っていくからね、だからあんたは大丈夫なんだよ」という祖母と病弱な孫とのやりとり。
これらは、仙厓さんがいう順ぐりであることが欠かせないことになる。命の連なりの大切なプログラムなのである。

しかし、順ぐりのあと先が違うと悲しみは狂おしいほどに深くなって、人の心にぽっかりと大きな穴を空けてしまう。連なりのプログラムは途切れてしまうのだ。


もう何十回忌になるのだろうか。30年以上の付き合いになっていたMとの最期は、悔やんでも悔やみきれない夜となった。

Mは肺癌の末期を緩和ケア病棟で過ごしていた。治療といっても全身に転移した癌の痛みをモルヒネで散らすだけの処方である。
入院中は夜になると決まってMからの携帯が昆虫の羽根のような音を立てて執拗に鳴っていた。
毎夜のMからの電話が次第に重荷になっていて、携帯を取らなくなっていた。いや、取れなくなっていたのだとおもう。
その頃のMとの電話の会話はいつ終わるともなく、時には夜が白むまで延々と続くこともあった。いつもとりとめもない内容で何を話したのか分からないままの会話だった。
話し終わった頃にはMに生気をすべて吸いとられているような状態で、いつも疲れ切ってしまっていた。

Mは、話す相手と同体感を共有し痛みを分かち合うまで言葉を絡ませようとしていたのだろう。
そのことによって、恐ろしく孤独で不安な夜をしのいで、死の淵に立たされている命の糸を朝の光が病室の隅々に差し込むまで紡いでいたのかもしれなかった。
あるいは、病室の隅にうずくまっている死霊が、廊下の非常灯の鈍い光でベッドを仕切るカーテンの向こうに映し出されている夜もあったのだろう。そんな眠れない闇夜は誰かとつながっていたかったに違いなかった。

最期の夜も、携帯が点滅して机の上で小刻みに震えていたのを鮮明に憶えている。息苦しさを覚えて鳴動している携帯をそのまま机の端に追いやっていたのだ。

留守電に「足の裏の土踏まずが異様に腫れているのによ、看護婦さんは相手にしてくれなくて‥‥このままモルヒネ漬けじゃ、朝まで眠れやしないんだよ、おーい!聞こえているか?‥‥まぁ、いいや、また明日な。ピーッ」と残されていた。

そのままMとの明日は来なかったのである。ふたりの子どもと妻を残しての他界だった。


順ぐりのちがったあと先は、残された人たちにとってはいつまでも深い喪失感をひきずることになる。Mの妻と子どもたち、たぶん私もその残された者のひとりなのであろう。
死んだ意味をいまだに見いだせずに、心の時が止まったままなのである。

〈忘れてやる 思い出にするくらいなら〉
松居大吾監督の映画『くれなずめ』(2021年作品)のサブタイトルである。
もうひとつは、新宿の武蔵野館のスタッフであった内山拓也監督の『佐々木、イン、マイマイン』(2020年東京国際映画祭作品)。佐々木/佐々木/佐々木/佐々木/佐々木/……!
先に逝ったアフロヘアーの佐々木への執拗に繰り返される、熱いシュプレヒコールがこころに焼きつく作品だ。

いずれの映画も、仕事やいろいろな人間関係に追われて、悶々とした日々を送るなかで、学生時代に共に過ごしたかけがえのない友の死を受けとめることができないままでいる、残された者たちを描いていた。
孵化ふかしたものの、うまく羽化うかできずに何処にも飛び立つことができないままでいる今の時代。新しいことが始まらないのだ。
あと先のちがった友の死と今から生きていくことへの連なりがうまくできないでいる青春群像をこの不安な時代に投影させていた映画なのかもしれない。


昭和に少し遡るが、小津安二郎監督の『東京物語』(1953年作品)の作品中に、妻に先立たれた夫を演じる笠智衆りゅうちしゅうがひとりガランとした部屋に座っているシーンがある。海のみえる広島・尾道に古くからある旧家の居間だったとおもう。
笠智衆の座っているすぐ傍らには、亡くなった妻の空間がいつものように在るのだ。
人の死が、家や土地の自然な記憶となり、いつまでも静かに息をし続けているのである。
そんなふうに描かれていたようにおもう。

あれは、順ぐりだったのだろうか。いや、先立っての残された者の、あと先のちがった話だったとおもう。
それで、あの死は、公園の砂上に残された子どもの絵のように、ひっそりと息づいたまま、夫の傍らで順ぐりが来るを待っていたのだろうか。とても静かに命が連なっていたのだ。


数年前に清順さんが手がけて、『雲海桜うんかいざくら』と命名した九州国立博物館の法面のりめんの百数十本のしだれ桜。

この鎮守ちんじゅもりに隣接する法面は、奈良時代から平安時代にかけて霊山・宝満山ほうまんざんで山岳信仰の修行を積んでいた山伏やまぶしたちの墓の跡であり、かつては宝満山の麓の竈門神社かまどじんじゃまで数百本の弔いの桜が咲き誇っていた場所であったという。
1000年前からの歴史にいざなわれるように、古来の墓跡に『雲海桜』が誕生している訳だ。

後日、その伝承を太宰府天満宮の禰宜ねぎ味酒みさけさんから聞いた時には、山伏たちの霊の降臨を目の前にしたかのように、おごそかなおそれのようなものをおぼえたものである。
あのとき、清順さんの身体には宝満山の山伏たちの霊が長い時を経て、待ちかねたように憑依ひょういしていたのかもしれなかったのである。

『雲海桜』は1000年前より連なり、これから太宰府の土地の記憶として息をし続けることになるのだろう。

 


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