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【専務 西村栄造のコラム】 第4回 「地続きの今」

「みんなは忘れるために酒を呑むのに、あなたたちは忘れぬために酒を呑む」という言い回しが琴線にふれて脳裏から離れない。
パレスチナの鬼才といわれるエリア・スレイマン監督の「天国にちがいない」という、10年ぶりの最近の映画のなかの台詞である。

 


 

つい先頃、東北で震度6強の地震があった。その後立て続けに5弱と宮城を中心に揺れた。10年前の東北大震災の余震であるという。
この10年を機に世間では大震災の記憶がすでに風化していると問題化されていた時期の大きな余震である。風化という私たちの時間的な遡行感覚を嘲笑っているかのような自然界からの警告なのであろうか。
そもそも“風化”とは地表にある岩石や鉱物が変質し解体するということであり、それは気の遠くなるような長い年月を要するものである。
46億年の地球史的な時間からすれば、この10年なぞ時の数えにも入らない。

東北の三陸海岸には、過去の津波の教訓が石碑などに数多く残されていたのを震災後にあらためて私たちは気づかされた。歴史的にはまだ最近といえる明治三陸地震、昭和三陸地震、チリ地震の津波にまつわる記念碑などである。「高いところに逃げよ」「これより低いところには家を建てるな」など事細かにつづった文面もある。
「津波はここまで」と記されていた碑もあり、南三陸町では子供たち91名の命が救われた避難所としての役割も神社の立ち位置が果たしていた。神社の鳥居は津波のたびに先人たちが高台に移築していたのだった。

 


 

時代を遡って、鴨長明の「方丈記」や平安時代に編纂へんさんされた「日本三代実録」にも地震の惨状が記載されていたのがこの間注目されている。
平安初期の史書「日本三代実録」にある貞観じょうがん大地震の一部である。


ー5月26日癸未(みずのとひつじ・869年頃)の日、陸奥国で大地震が起きた。/
(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。/
ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。/
驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓もんやぐら牆壁しょうへきなどが多数崩れ落ちた。/
雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯かいしょうが長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。/
内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。/
船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。ー

10年前の3.11の状況を再現しているかのようである。マグネチュード8.7と推測されているので、ほぼ同じ規模であったのだろう。
平安時代には、西の九州の太宰府と陸奥国の東の拠点としての多賀城に当時の政庁があったことから仔細な記録が残されている。今は、1000年前と地続きなのがそのまま実感できる。

 


 

平安時代の地震災害と東北の大震災とが大きく異なるのは、自然災害に加えて原子力発電の全電源喪失と、原子炉を冷却できず、空焚きになった末の水素爆発があったことである。

富岡町、双葉町、浪江町などの帰還困難区域は、今も人影や生活音はなく、住宅やガソリンスタンドやコンビニなどの商業施設が崩れかけた廃屋の姿を当時のままさらしている。
人類史にとって未曾有のことが起こったのである。

私たちは、往々にして歴史年表をめくるように過去を完結された出来事としてカタをつけようとしているが、そのことが“風化”を招いているのではないかとおもう。
今も、圧力容器の底に溶け落ちた1~3号機の各燃料デブリ(推定880トン)を残したまま高線量の放射線を放ち続けており、24時間、注水による冷却がエンドレスに続く。
1日あたり140トンも漏れ出している汚染水を保管するタンクは1000基超となって敷地を埋めつくしている。
今いる人間が死に絶えたあとも放射性物質は残り続けるのである。今の私たちは未来に向かってそのことをおもわずにはいられないはずである。

災害多発時代に入っているといわれている。しかも現在進行形。歴史はなにも清算されておらず、完結もしていないのである。

 


 

先日、久しぶりに広島平和記念資料館に行った。

公民館の小さな陳列から資料館になったのは70年前のことである。
資料館の建築デザインは丹下健三氏である。資料館は平和大通りから原爆ドームへの視線を遮らないよう、ピロティにより空中に浮かせている。日本におけるモダニズム建築の傑作であり、戦後の建築物として初の国の重要文化財となっている。

初代館長は熱線で溶けかかった瓦礫や岩石を原爆被害の証としてひとりコツコツ集め歩いていた長岡省吾氏である。
長岡氏は明治以降の政府の勧奨した移民先のハワイで生まれ、中国東北部のハルピンで地質学を学ぶという波乱に満ちた経歴の持ち主である。

14万人もの人びとが一瞬のうちに熱線で焼死した焼野原を彼はさまよい歩いた。町にはまだ遺体が散在し、浮遊するように歩く母親のぶら下げていたバケツの中にはふたりの子どもの頭が入っていた。長岡は熱線で溶けた瓦のようすをつかむために、表面をなめることもあり、変人扱いされたともいう。

一昨年に館内は全面リニューアルをしていた。
放射線などの物理的な面からの被害から当時の人びとの生活史をまじえた歴史のふりかえりという少し軸足を移した展示になっていた。

 


 

あの日の朝を当事者として体感すること、資料と見る人との距離を縮め、一緒に静かに考えてもらうこと。それらの無言に語りかけている展示資料群を前にして、黒木和雄監督の映画「TOMORROW・明日」(原作・井上光晴、1988年)と「父と暮らせば」(原作・井上ひさし・戯曲、2004年)を思い出していた。


ー「妹の結婚式の最中に産気づき、難産の末、原爆投下直前の早朝に男の子を出産するツル子。その日に庄治と結婚し、翌日の夕方に買い物へ行く約束をする妹のヤエ。製鉄所の工員の庄司は自身の抱えている秘密を打ち明けられずにいたところ、結婚したヤエに「言えなければ明日でも明後日でもいい」と言わてその朝、別れた」ー

一瞬の閃光がすべてを奪う前日から直前までの市井の人びとの暮らしを淡々と描いた作品である。作中の彼らに「明日」も「明後日」も永遠に来なかったのである。

もうひとつの「父と暮らせば」は、井上ひさしの戯曲を映画化したものである。被爆して生き残った娘と原爆で亡くなった父の亡霊との会話を軸に戦前の広島市街地での何気ない暮らしが描かれている。父役の原田芳雄の抑えた演技が戦争そのもののやるせなさを表していた映画だった。
照明を落とした展示室のなか、身につけていたむき出しの衣服、子どもが乗っていた歪んだ三輪車、溶けかかっているアルミの弁当箱、それらの当時の暮らしの塊が見るものに迫ってくる。
かつて観たふたつの映画のシーンが静かにオーバーラップして、しだいに圧倒されていった。

旧住友銀行玄関前の「人影の石」。熱線で瞬時に消滅した人間の影だと長い間、そういわれていた。しかし、それは影ではなく、黒ずんで見えたのは有機物、人間そのものが閃光によって一瞬にして石に付着していたのだ。
ほんの75年前のこと、忘れぬことはできない。忘れてはならぬものは、懸命に生きていた人たちの無念の悲しみである。

 


 

地球の内側5,100キロから6,400キロには、液体の外核に囲まれて月の3分の2ほどの大きさの内核の固体が浮かんでいる。熱放射の光を取り除くと、内核は銀色の星のようにみえるらしく、そこには外核の底で凍った鉄が雪のように降り注いでいるという。
東京の代々木も大阪の池田もニューヨークもパリも北京もその外核の表土に貼りつくように、街は存在している。そして、そこに暮らしている私たちの足もとのずうっと下では、真夏でも雪が降っているというのだ。

地球上の自然環境に対して最も影響を及ぼしているのは、数えきれない生物種なかのひとつにすぎないヒトである。
ヒトは、46億年にわたる地球史においてはまだ500万年前の先史時代に現れた新参者である。

ヒトは古代から空を飛ぶことを夢見てきた。ローマやギリシアの神話などからすれば、ヒトの憧れは鳥だったようだ。それでも、地球史や生物史のうえでは、鳥はまだ比較的新種の生きものだという。
鳥以前に翼竜が空を支配していた。そして、そのはるか昔、少なくとも翼竜の1億年以上前には、無数の種類の昆虫が空を飛びまわっていたという。

新参者のヒトは自然への畏敬の念をどこに置き忘れたのか。

 


 

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