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【専務 西村栄造のコラム】 第1回 「とっておきの出汁(だし)」

最近は出汁もインスタントになっているが、やはりひと手間かけてカツオ節や昆布で出汁をとって薄口醤油をたらしてお吸い物などを戴くのが、なんといっても美味い。

昆布って海の中で出汁が出ちゃわないのかって?

考えてもごらんよ/昆布が海で出汁をみんな出しちゃったら/

ニボシやカツオ節の立つ瀬がないじゃないか/

それに出がらしの昆布じゃ佃煮にしかなんないし/第一オメエ お吸い物はどうすんだよ

ありゃオマエ/昆布が死ぬから出汁が出るんだよ/

死んで乾燥させると細胞膜が壊れるんだよ

死んで初めて出汁を出すんだよ/生きている間は出汁なんて出さねえんだよ

人と同じよ

人間だって/死んで初めてその人の味が出るってもんさ

なっ/そうだろう?

ー『アジアの多文化共生詩歌集』坂井一則

 

この詩は、出汁に喩えて生きることのかけがえのなさと如何なる時代であろうとも生き抜いてゆくことの妙味をあらわしている。

この時代状況下、若者を中心にした自殺者が急増していることには、雪の降り続く深夜に雪折れする木々の枝のような乾いた音まで聞こえてきそうになる。

2年前、痛みには、治らない痛みと快復に向かおうとする痛みがあると主治医に迫られるが如く励まされて手術にのぞんだ。

今、40数針縫うほどに太腿を切開して取り出した脚の肉を、癌に侵されて切除した舌の代替にしている。舌には無数の毛細血管と神経が張り巡らされていることから、喉元から切開して喉のバイパスを通すなど、ステージ4の癌手術は20時間に及ぶ大がかりのものだった。

 

術後、代替した舌には、毛が生えていた。そもそも脚の肉だから毛が生えるのは当然なのであるが、さすがにはじめは戸惑ってしまった。

それでも、あまり毛深くない我が体質が幸いし、儚げな頭髪よろしく薄毛であったのには救われた。とはいったものの、鏡で覗いていても、あまり恰好がよろしくない。定期検査の折に歯科の方で度々毛抜きの処置をしてもらっていた。

すると驚くことに、やがて毛が生えなくなっていたのである。

次第に、脚の代替物が口腔に馴染んで舌に変貌してきたのである。

当初は白っぽかった舌が今やピンク色になっている。またさらに、その贋作の舌に神経が通い、痛みの感触やおよその味覚までわかるようになってきているではないか。さすがに、これには担当医も驚いたようである。

人間の身体というのは不思議なものである。我が身は、まず、思惟的な存在というよりも、なによりも生き物のひとつなんだとあらためておもった次第である。

 

ちなみに人間の血管の長さは、約10万キロ、地球2周分といわれている。体内で血管が入り込んでいないのは、目の角膜と水晶体だけ。ただこれは全身の毛細血管を前提にした場合の長さということらしく、実際の大動脈、中動脈等の断面積と血液量(体内の血液量は5リットル)をもとに計算すると日本列島の2倍の長さの6000キロになるようなのだ。

体内には果てしなく長い未知の旅路が秘められているということになる。

人体は不思議に満ち溢れており、人生というものはなによりもこの宇宙のような未知の己れの身体と向かい合ってゆくことでもある。

そう考えると、私たちは、みずからの身体のみならず、この世界の99%が分かっていないといえるのかもしない。だから不安、だから面白い、だからこそ迷いながらも生きてゆくという旅路に踏み出しているのだとおもう。

 

術後、私は流暢な言葉を失った。口笛を吹けなくなった。愛猫を呼ぶときの舌を丸めて発する呼びかけを失った。いろんなことが出来なくなった。

それでもその分、以前よりもひとの話をゆっくりと聴くことができるようになった。ようやく、相手を受け止めて、逃げることなく目の前のことと向かい合えるようになったのかもしれない。

どうやら、失うことは何かを得ることにつながるようだ。

 

死は後ろからふっとやって来る、とは徒然草の吉田兼好の言葉である。

ひとりひとりはかけがえのない存在なのであり、そして、ひとりひとりが存在してきたことを裏付けるように、それぞれの時代状況を孕みながらも、死は必ずやって来る。慌てなくてもよいのである。まずは生き抜くことだ。

願わくば、やがてやって来るその時、皆んなひとりひとりがそれぞれにひと味ちがう、とっておきの出汁がだせたらとおもう。

 

 


 

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