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【専務 西村栄造のコラム】 第3回 「においのある風景」

ー『観光立国』の副作用とサスティナブルな地域資源ー


八重山の石垣を出て、黒島を過ぎたあたりから外海にさしかかると、豚や山羊の家畜や生活用品を積み込んだ当時の先島行きの船はひどく揺れていた。家畜のにおいも相まって船底で必ずや船酔いしたものだった。

田舎の村から乗合いバスがトコトコと来ると、車内には行商のおばさんやおじさんたちが背中の荷はそのままに座っていて、藁のにおいがほのぼの立ちこめていた。
かつては、その土地土地のにおいの風景のようなものがあった。

沖縄の那覇空港に降り立てばラフテーやミミガーなどの豚料理のにおいがした。
那覇の公設市場は琉球の無国籍的な市井のにおいがエネルギッシュに溢れていた。
韓国の金浦空港ではニンニクのにおいが鼻孔をつき、北京の路地の胡同フートン
では開け放たれた露店から湯気が立ちのぼり八角の濃密なにおいが漂っていた。

近年アジア各地においても、旧市街地の路地裏などが急速に解体・整備されていくにつれて、次第に土地土地のにおいは消えて、均一化された無機質なたたずまいの町の風景に移り変わってきているようにおもえる。


「そら植物園」の所在する大阪府池田市においても、将来のまちづくりについて地元の企業やNPO等の幅広い分野で平場の議論が交わされ始めている。
地方創生という政府の指針の下、全国各地でまちづくりが取り組まれているが、交付金という縛りもあってか、ややもすれば金太郎飴的な構想のコピーが何処においても繰り返されているような気がしている。

アーティストであり当社のCEOでもある西畠清順さんが提唱している、日本の植木三大生産地のひとつである池田市におよそ500年にわたり脈々と受け継がれている造園や園芸の伝統産業を生かしたまちづくりの構想は、全国各地における地域振興策が地滑り的に破綻している現況下において、まさに当を得ている。
インバウンドを始めとした狂騒的な『観光立国』がほころびをみせつつある昨今、地域資源や観光資源の本来のあり方が問われている状況だからである。


1970年代、沖縄が日本に復帰してまだ間もない頃の八重山。内地の観光資本が沖縄の先島の土地を買い漁っていて、パスポートが不要となったこともあり、ヤマト(内地)からの観光客がまだ水や電気、通信のインフラも十分に整っていない過疎の先島にもちらほら姿を見せ始めていた頃である。

島の集落の中を観光客が水着のまま闊歩しているのを島人たちは疎ましくおもっていた。
島には鍵をかける習慣もなかった。
島人にとっては暮らしの場にあたかも土足で上がってこられているようなおもいだったのである。

石垣島では、黒真珠のとれる透明度の高い川平湾沿いのホテル建設にともなって、湾に排出される汚染水をめぐって住民運動が起こっていた。
八重山の島々は、沖縄の復帰前後から耕作地を手放し離農しての観光推進か祖先代々の土地を守るかのあい路に立たされ続けてきた。
地域振興という名のもとで翻弄されてきたのである。

そして、復帰当時から半世紀にわたり、かつて海外のファンドや国内の観光資本に買い占められた、島々の失われていた土地の買い戻しに島人たちがみずから果敢に取り組んできたという八重山の小史がある。


1970年代当時の八重山は、豊かな珊瑚の海があり、海岸の白砂は手で掬うと星砂が指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていた。

透明な陽光が島の集落の低い赤瓦のいらかに降り注ぎ、そのまま空に乱反射している。生活用品や家畜を積んだ、小さな定期船がかろうじて接岸できる港の浮桟橋がエメナルドグリーンの海面にゆったりと揺れている。

島々は、サンゴ礁の白いリーフの波に囲まれ、沖合からみると水平線に重なるように平坦な島影をみせていた。その白く波立つ珊瑚の岩礁の先端に立ち、クバ笠を被った海人うみんちゅが陽に焼けた逞しい腕を大きく振りあげ、投網を真っ青な空に広げるようにして海に投げ打つ。沖にはサバニ(琉球の丸木舟)が浮かんでいる。
数人のうみんちゅは、珊瑚の岩礁の間に三枚網を仕掛けて、素潜りで大仰に踊るようにしながら魚を網の中に追込む。島の漁猟はあたかも神祭のようだった。

月が満つる夜には、珊瑚のかけらの白砂が敷きつめられた集落の道がムーンライトに白く浮かび上がる。それは、まるでニライカナイ(琉球の理想郷)の異界にいざなう幻想的な緞通(カーペット)のようにおもえた。
八重山の島々は当時、“天国にいちばん近い島”だったのである。


復帰した当時、八重山は大旱魃だいかんばつや大型の台風でサトウキビなどの凶作が続いたことも重なり、内地や海外の観光資本に島の土地が続々と買い占められていった。

さらに西表島を中心にした国立公園化の構想が浮上すると、竹富島を中心に小浜島、黒島などでは土地の買い占めへの拍車がかかり、急速に島人は離農を余儀なくされた。八重山のほとんどの島々は観光産業に舵を大きく切っていったのである。

まもなくして、人口300名ほどの竹富島には10万人を超える観光客が押し寄せて来るようになった。
小さな島にし尿やゴミ問題が発生しはじめた。これまで畑地還元や地下浸透で自家処理されていた汚水処理も大量となった。竹富島、西表島には焼却炉、汚水処理施設は皆無だったのである。
石垣からの生活水の送水にも限りがあり、島の生活インフラはすでに破綻をしていたにもかかわらず、宿泊施設は無計画に建設されていった。

風に揺れるサトウキビ畑の風景は消失し、海岸には珊瑚の死骸が打ち上げられて、白砂も無くなろうとしていた。小さな島にレンタカーなどの車やバイクが増えて、集落をつなぐ道は島の老人たちが歩行もままならない危険な状況になっていた。
島はいっきに荒れた。


古来から竹富島は、八重山の政治の中心であり、歴史的な文化の宝庫の島であった。

赤瓦の甍にはシーサーが座り、ヒンプン(家の内側にある魔よけ)と珊瑚の瓦礫でできた外塀が伝統的建造物の民家を囲む。民家は、一番座、二番座、三番座、それぞれの裏座という伝統的な間取りと棹縁天井のつくりである。集落の周りには防潮林のフクギ並木があり、真紅のハイビスカスが南の島の青空にさもあるかのように映えていた。

古調な建造物の立ち並ぶ集落のたたずまいは、島外の人々の支援も受けながら、島人たちの保存に向けた長い取組ののちに、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されることになる。
そして、この景観保存への地道な取組は、荒廃していた島を再生し甦らさせていく原動力にもなっていくのである。


竹富島にとっての観光産業は、台風と旱魃の被害による農業への絶望感にかわる当面の活路にはなった。
しかしながら一方で、復帰後の土地売買の攻勢に屈し、このまま外部資本のもとで観光産業を甘受していくのか、それとも島の生活インフラが破綻する惨状を目の当たりにして、島人みずからの力で竹富独自の自立した産業をつくり出していくのか、いずれかの岐路に立たされていた。

果たして、島の公民館会議を重ねた末に、竹富島の島人は外部資本に頼らずに島人の結束で島を生かす独自の観光事業を起こすという選択をしたのだった。事業設立の趣意書に当時の島人のおもいが窺える。

「島はここ10年、20年の昨今できたものではなく、五百年も千年も昔から我々の祖先が継承して今日に及び/ 雨がひと月降らないと飢餓線上をさまよい、天恵乏しい小っちゃな島に生命をつなぎ、過酷な人頭税などの被支配、圧政にもめげず野っ原のシュナイをつくり、シダミの汁をすすり、ソテツの毒素を抜き去って食べるなど、粘り強く生命を守り、舞踊などの民俗芸能を造り、芭蕉や苧麻からむしなどのすばらしい織物をつくり出した/ こんなスバラシイ我々のふるさとが竹富島である」

竹富島出身者で組織した、まさに地域に根ざした企業を起こし、島の土地の確保と外部資本からの土地の買い戻しに取り組み始めたのである。
島民一人ひとりを株主にし、竹富島の文化的価値を知っている島外からの支援も幅広く受けながらの起業であった。今でいうベンチャーやスタートアップとクラウドファンディングの先駆けである。


さらに間もなくして、その果敢な起業活動のミッションというべき、「竹富島憲章」が公民館会議で起草されている。
「『売らない』ー島の土地や家などを島外の者に売ったり無秩序に貸したりしない」ということが憲章の基本理念の冒頭に掲げられており、島の未来を明確に方向づけている。

八重山では、サトウキビの収穫時には畑を集落の全員で刈取り、家づくりや墓づくりの際にも皆が一緒に協力し合う伝統的なゆいという共助社会が今に至っても継承されている。
この「竹富島憲章」は、古調な集落のたたずまいや豊かな自然の織りなす島の原風景は、その古来からの共同体によってこそつくり出されてきたという島人たち自身の矜持そのものなのだろう。

失ったものを取り戻すにはいつからでも遅くはないという、この力強い復活戦的なメッセージはやがて鳩間島や西表島の白保地区などの八重山の他の島々にも広がっていくことになる。


琉球孤をヤポネシア(日本列島)と対置させたのは、奄美の作家の島尾敏雄であるが、鹿児島の奄美諸島から沖縄本島、八重山までの琉球孤は地質学的には内地の本州に匹敵するほどの長さで形成されている。

その琉球孤の島々には、独自の島言葉と島唄、舞踊があり、固有の風土がある。島のひとつひとつがワッタ島(私たちの国)なのである。
土地に紐づいた多様な資源に島人たちの古来からの知恵や工夫が加わってきたことによって、島々には私たちを魅了する豊かな原風景が存在し続けている。

持続可能な観光資源というのは、厳しい自然と折り合いをつけながら、伝承や人びとの暮らしが根付いている、そのような地域固有の資源を生かしてこそつくられるのではないかとおもう。
私たちの出会いや発見の感動もそこにあったのではないか。

70年代前後の沖縄の島々の買い占めから海外のインバウンド誘致まで狂騒してきた観光資本はコロナ禍で立ち止まざるを得なくなった。

大分県のかつて山々に囲まれた静謐な温泉地であった由布院には、インバウンド向けの簡易な宿泊施設の形骸が無残に残されている。まちづくりを先駆的に取り組んだ由布院ですら、パッチワーク的な国の施策の『観光立国』という一過性の風に煽られてしまった。
大量動員、大量消費の観光産業のこの間の進展は、一人ひとりの感動を置き去りにしてきている。

私たちが忘れられない風景の心地よさとはなんだったんだろう、自然があり、建造物があり、人間がいて、暮らしのにおいがあって、なによりもその土地との対話があったからなのだとあらためておもう。